柔らかい夜に魔法はいらない



三月の下旬になっても風は冷たいままだ。
干してあった大量の洗濯物を物干し竿から取り、カゴに放り込む。お日様が出ている時間に干していたはずなのに、他の用事を済ませているうちに日が暮れかけて、一度は乾いた衣類が少しだけ湿ってしまった。あちゃー、と落ち込む。
何やってんだバーカ。
私の背中にそうやって声をかける跡部は、今ここにはいない。

男子テニス部の正準レギュラー一同は、春の海外遠征へ出掛けているのだ。
いち部活の春合宿を海外で行うだなんて規格外もいいところだけど、氷帝学園、中でも跡部様率いる男子テニス部には一般的な感覚で望むほうがナンセンスかもしれない。

一般部員の今日の練習はとうに終わっていて、残っているのは私だけだ。一人になった部室でせっせと洗濯物を畳みながら、遠征組はどんな風に過ごしているのだろうかと考える。遠征中のスケジュールは私も一応教えて貰ったし、日報は先輩マネさんからメールで送られてきていて、目を通している。練習試合の結果なんかはそれで知ることが出来ているけれど、どんな試合展開だったか、とか。向こうでの生活で何か困ったことはないかな、とか。みんなが帰ってきたら聞きたいことがいっぱいだ。

レギュラーの帰国まであと二日。
……まだ二日もある。

畳み終えた洗濯物を片付けて、制服に着替える。日が長くなりつつあるとは言え、外に出ると辺りは真っ暗だった。部室に鍵をかけ、レギュラー用の部室の戸締まりも念のため確認して部室を後にする。
ポツポツと置かれた学園の外灯だけが暗闇の中で淡く存在を示している。出来るだけその光の下を通って校門を抜けた。時折部活終わりに校門近くで見かけていた高級車は、遠征が始まって以来ぱたりと姿を消している。お迎えする王様がここにいないのだから当然なのに、つい、今日も来ていないのかと探してしまった。

ーー留守は任せたぜ。

夜道を歩きながらふと、跡部の台詞を思い出した。コーヒーの苦く深い味まで一緒に甦る。



春休みが始まって最初の土曜日のことだ。
テニス部はオフ。たんまり出ている連休中の宿題をするべきかもしれない。友達と街に出て春服を買い込むのもいい。録りためたドラマもある。たまには目覚まし時計とサヨナラをして、昼まで寝るのも悪くない。
自由気儘に過ごせる一日、暖かな春の入り口の、のどかな昼下がり。私は跡部に呼び出され、最寄り駅へと走っていた。一日オフの日に跡部に呼びつけられるなんて初めてだ。私、何かやらかしたんだろうか。思い当たる失敗は……ない、と、思う。それなのに、歩いて行っても約束の時間には余裕で間に合うにも関わらず、私の足は目的地へ急いで駆けた。

駅前のロータリーに黒塗りの高級車が停まっている。住宅街の中の小ぢんまりとした駅には馴染んでいないけれども、そんなことは何処吹く風とばかりに涼しい顔で、跡部は高級車にもたれ掛かって立っていた。

「ごめん、待たせた!」
「気にするな、こっちが早く着いちまっただけだ」

私服の跡部を見るのは初めてで、不躾だと思いつつ、まじまじと見てしまう。襟にファーが付いた高級そうなジャケットに、謎の柄の高級そうなシャツ。ぴったりとした黒いパンツは長い足をより魅惑的に見せた。君は本当に中学一年生か。

「えーと、その、今日はどのようなご用件で……?」
「話は中でする。乗れ」

そう言うや否や跡部は車に乗り込んでしまった。え。なに? これに乗れって?
よく分からない上にこんな車に乗るなんてと気が引けて、車内の跡部に目で戸惑いを伝えても、早く乗れと言いたげな顔をされるだけだった。仕方ないのでドアを開ける。
ミラー越しに運転手さんと目があって、慌ててこんにちはと挨拶をする。すると柔らかい笑顔で挨拶を返してもらって、なんだかホッとした。

「ミカエル、あの店へ」

私が後部座席に深く座ると、跡部が運転手さんに声をかける。ミカエルといういかにも執事っぽい名前で呼ばれた老年の男性は、畏まりましたと頷いて、ゆっくりと車を走らせた。見慣れた街を出て大通りに入ったところで、私は隣の跡部に顔を向けた。どこへ連れて行かれるのだろう。

「私、何かやらかした……?」

恐る恐る伺う私に、跡部は訝しげな眼差しを寄越してくる。

「なんでそう思う」
「だって呼び出されたから、怒られるのかと」
「……自信のねぇ奴だな」

呆れ返った風の声色だった。けれどすぐに切り替えて、バレンタインの礼だ、と跡部はきっぱり言う。

「バレンタインの……」
「今日はホワイトデーだろうが」
「そっか。忘れてた」

というより、見返りを求めてお菓子をあげたわけではないので、ホワイトデーなんて無縁のものと思っていたのだ。
咄嗟に「そんな、いいのに」と口から転がり落ちそうになる。でも、こうして車を出してもらっているし、オフの時間を貰っている。厚意を無碍にしてしまうのではと思い直して遠慮の言葉は飲み込んだ。
代わりにありがとうと伝えると、跡部は満足そうに口角を上げて静かに笑った。


ほどなくして車は小さな駐車場に停まった。ミカエルさんが車のドアを開けてくれて、手まで差し出してくれるものだから、私はぺこぺこ頭を下げて縮こまりながら外へと出た。こんな、ご令嬢のような扱われ方はされたことがなくって、くすぐったくて仕方ない。

ミカエルさんを車で待たせて跡部が向かったのは、閑静な住宅街にひっそり佇む白壁のお店だった。白を基調にした店内にはいくつかの丸テーブルと椅子があり、ガラス越しにキッチンが見える。カウンターにはいろんな色や形のチョコレートが並んでいて、まるで宝石店を思わせた。
お洒落で可愛い、けれど品のあるお店。
跡部は奥の席に腰かけて、私にも座るよう促す。正面の席に着いたタイミングで店員さんがメニュー表を手渡してくれたけれど、跡部はそれに目を通すでもなくスラスラと何かを注文した。最後に私を見て、コーヒーでいいか、と聞いてくる。咄嗟にこくこく頷くと、それを受けてまた呪文みたいな言葉を店員さんへ伝えた。詳しく無いけどきっと、コーヒーの豆を選んだのだと思う。

「ここ、跡部はよく来るの?」
「頻繁には来ねえな。取り寄せる方が多い」

跡部御用達らしいこのお店に、今日は久しぶりに来たのだと聞いて少し嬉しくなった。

ベルギー出身のショコラティエが日本に作ったここ、チョコレートブティックは、跡部のお母さんが最初に気に入ったそうだ。欧州にも数店舗あり、彼が去年まで住んでいたイギリスにも一店舗あったのだとか。初めは苦いと思ったカカオたっぷりのチョコレートを、このお店へ母親に連れて行かれるうち、自身の身体の成長もあってか美味しいと思えるようになったのだと懐かしそうに話す跡部。彼の口からお母さんのことやイギリスでの生活のことを聞くのは初めてで、新鮮だ。

「お待たせしました」

運ばれてきたプレートにはチョコレートが六つ、均等に並んでいる。店員さんが一つずつ説明をしてくれて、最後にコーヒーを淹れてくれた。
こんな高そうなチョコレートは食べたことがない。何か、こういった場所での作法はあるだろうか。
顔を上げて向いの跡部を見ると、戸惑っている私が面白いのか何なのか、微かに笑っている。

「食えよ」
「うん、じゃあ、いただきます」

チョコレートを一つ、口に入れてみる。外を覆うチョコがパリッと割れると中で待っているメレンゲクリーム。まろやかなクリームの甘さと、甘酸っぱい苺の風味が溶け合って、濃厚なカカオとのバランスも絶妙で……なんて美味しいんだろう。
口をつぐんだまま、おいしい! と跡部に訴える。もちろんきちんと発音されるはずもなく、実際には「んーんん!」という音になってしまったけれど、

「そうか」

跡部には伝わったみたいだった。
食べ終えてしまうのは惜しい。でも食べたい。チョコレートを一つ食べてはコーヒーを飲み、また一つ食べては、少しコーヒーを飲む。
チョコレートだけでなく、コーヒーもまた美味しい。というか、コーヒーを美味しいと思えたのは初めてだ。跡部に感想を伝えると、私の語彙力不足の食レポをそれでもしっかり聴きながら、時々マメ知識を披露してくれた。

私があげたバレンタインのチーズケーキには見合わない、贅沢すぎるお返しだ。あまり仰々しくすると嘘っぽく見えるかもしれないけれども、ありがとう、ほんとに美味しかったよと心からのお礼を言った。
ああ。そう短く答える跡部はどこか得意気で、上機嫌だった。


「苗字」
「ん?」
「留守は任せたぜ」
「……なに、急に」

チョコレートを食べ終え、残りのコーヒーを飲んでいる私に跡部が言ったその言葉が、じわじわと耳から体の内へと染み渡る。
任せるって言った……?
カップを口から離してソーサーに置いた。カチャン、と音を立ててしまったのが動揺を現しているようでイヤだ。

跡部達レギュラー陣とレギュラー専属のマネージャー数名は、数日後に海外遠征へと出かける。一週間と少しの間、跡部がいなくなるのだ。誰が指揮んだよ、と残されるほうの部員達が囁いているのを私も聞いた。
圧倒的な実力と統率力で引っ張ってくれているリーダーが不在となるテニス部は、一体どんな雰囲気になるのだろう。監督だってレギュラーに同行するし、気が緩んで真剣に取り組めない、なんてことが起こったらどうしよう……。そんな私の不安を、見透かしているのだろうか。
それとも残していく側の人間を無作為に選んで、同じ言葉をかけているのだろうか。……そんなこと、跡部はしないか。

託されたものは大きい。
私の手に負えるかな。
不安は拭えない。
跡部が言うように、私には自信がない。
でも、こう答えるしかないと思ったのだ。

「……任せてよ」



東京からは見えない満天の星空が、あっちでは見えるんだろうか。帰り道をひとり歩きながら、ふうと息をつく。
今のところ何事もなく日々は過ぎている。あいつら何食ってんのかなとか、スゲー豪華なホテルなんだろうな、とか。遠征組を羨む声はちらほらと聞こえはするものの、留守番組にも意地がある。予定していた練習試合は、みんな見事に勝利を納めていた。

話したいことも、聞きたいこともたくさんある。あと二日、あと四十八時間。長いなあ、と遠くの空を見ていた時だった。携帯電話がブルブル震えた。
電話だと思い制服のポケットから取り出す。画面を見て、びっくりしてしまった。思わず足を止めるほどに。

「……もしもし? 跡部?」
『ああ』

電話越しに艶やかな声が聴こえる。跡部だ。私は、ばかみたいにまっすぐに、そう思った。跡部が電話をくれた。

「久しぶり」
『……別に久しぶりってほどじゃねえだろ』
「え、そうかな。私的にはだいぶ久しぶりな感じがするけどなあ」

跡部に言うともなく呟く。電話中なのでもちろん向こうに聞こえていて、そうかよ、とぶっきらぼうに返された。あちらの空気はしんとしていて、レギュラーの誰かが近くではしゃいでいるような声は聞こえない。跡部は一人でいるのだろうか。

「跡部、いま部屋?」
『ああ。どうした』
「静かだなって。皆の声が聞こえないし」
『アーン? 俺様が電話してやってんのに、不服ってことか?』
「違う違う、満足してます! 嬉しいよ!」

急にふてくされた声色になるので、慌ててフォローしてみる。ムスッとした彼の顔が簡単に想像出来て、こういうところは年相応に子どもっぽいなあと口許に笑みが滲むのを感じた。てめぇ笑ってるだろ、と相変わらずお見通しで言い当てられてしまう。

『……で、そっちはどうなんだよ。試合は勝ったようだが』
「そうそう、そーなの。全勝! すごくない?」
『フン、まあまあやるじゃねーか』
「でしょ。跡部にも見てほしかったよ」
『撮ってんだろ。帰ったら見せろ』
「はーい」

それから跡部は留守番組の試合外の様子を聞いてきたり、合宿中のレギュラーの話をしてくれた。ジローがきちんと起きて練習に参加しているかどうかは心配だったけれど、みんなで四苦八苦しながら彼を起こしていたようだ。お前がいてくれれば。そう言うヤツが多いのだと、事も無げに跡部が話す。

むずむずして、駆け出したくなる。お前がいてくれれば。そんな風に言ってもらえて、嬉しくないわけがない。冷たい風を心地よく感じるくらい胸が弾んで、声も弾んだ。
遠征組の試合の内容や、あちらでの食事のこと。帰ってきたら試したい練習メニューがあること。家への道を歩きながら、とりとめもなく、私達は話をした。距離なんて感じない。部室や教室、図書室や、あの日連れていってもらったチョコレートのお店で過ごした時間がそのまま私達の間に流れていた。


2020/04/07
title by ロレンシー

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