花咲く時間



得意なことと苦手なことを数えたら、間違いなく後者の方が多い。今しがた配られたペラ一枚の用紙に目を通し、私は静かに、でも深く溜め息をついた。
部活の方へ全力投球をしている間に、中間考査がすぐそこまで近付いてきていた。おかしいよこの前二学期に入ったばかりだったのに。国語と数学、英語に理科社会。五科目の試験範囲はどれもこれも広く、あと数日でこの試験を受けて私が良い点数をとれるイメージはさっぱり沸かない。
特に問題なのは数学と理科だ。今回試験が行われる五科目の中でかろうじて得意だと言えるのは英語だけど、それだって英語ぺらぺらの跡部を前に胸をはれるほどではない。……というか、跡部を前に胸をはって自慢できることが何か私にあったっけ……。

「赤点の科目は放課後残って補習だからな」と担任の先生が愉快そうに言って、教卓近くの席のクラスメイト何人かが嘆いた。まじかよ嫌だー、おれ英語やばいんだって、お前やばいのは英語だけじゃないだろ。そんな笑い混じりのざわめきが耳に入る。いやいや。全然、笑えない。本当にまずい。
入学してからの三ヶ月分しか範囲にならない夏の期末考査は乗り越えられた。けれど二学期になってから難しい単元に入り、授業のペースも速い。ほとんど理解できずに終わった章もある。

……部活に穴を開けたくない。心に思い描いている理想のマネージャーに一日でも早く辿り着きたい。放課後の補習なんて、何としても避けたい……!

朝のホームルームを終えて、一時間目が始まるチャイムが鳴る。朝一番、苦手な数学からだ。今日の授業からでも遅くない。今日学ぶ範囲から、まず攻略していこう。そう意気込んで、私はノートの新しいページを開いた。



思い描いた通りにならないのが人生で、だからこそ生きるのは面白いのだと本で読んだことがある。お父さんの部屋にあった、有名なスポーツマンの名言集か何かの一文だ。
思い描いた通りにはならない。まさにそうだ。でも、だからこそ面白い? そんなわけないよ。心のなかでぶつくさ言いながら、数学の教科書とノート、筆記用具を持って図書室を目指す。
お昼休みの図書室には、それなりに人がいた。中間考査前だからだろうか。とは言っても普段図書室なんてそうそう来ないので、いつもより混んでいるのか空いているのかは分からない。ただ私が予想していたよりも、席は埋まっていた。
入り口に近い長机を通り過ぎて奥へ奥へと向かう。文学、新書、哲学、心理学、歴史、社会、生物、医学、天文、音楽、美術……入り口から遠くなるほど人口密度はちいさくなる。そうして演劇と映画の書棚の間に誰も使っていない丸机を見つけた。ひっそりとした空間になんだか緊張しながら、そっと椅子を引いて腰かける。

今日の授業からでも、なんて甘かった。中間考査前ということで、試験で出す応用問題に似たものを先生は用意してくれたのだけど、これまで習った……と思われる公式を複合的に用いて解く応用問題は、とんでもなく難しかった。半分も解けやしない。
教科書を開く。試験範囲の最初から、今日は基礎を確認しよう。明日は演習問題をたくさん解いて、明後日は応用問題へ取りかかる。さらに次の日は理科をまるっと抑えて、残りの時間は文系科目に充てるーーこの大雑把な計画は、早くも翌日に頓挫してしまった。

「……謎すぎる……」

いつだかの授業で解いたはずの演習問題に、手が止まる。まあ、正しくは、先生に当てられたクラスメイトがすらすら解いていくのをぼんやり見ていただけで、私がこの問題を解き正解したことはないんだけど。
それでも一度は答えが導かれる道筋を目にしたはずなのに、何だっていうの。コレだ!と思う公式を使って何度試しても答えが合わない。

何なのこれ、と思いながら問題文を再度読もうとしたとき、ふと私の手元が暗くなった。人の気配に顔を上げる。

「……? 何してるのこんなとこで」
「見てわからねぇか。読書しに来たんだ」

跡部だった。手に持つ分厚いハードカバーには、恐らくその本のタイトルだろう、どこの国の言葉か分からない文字が大きく掘られている。
この秋生徒会長になってからというもの、昼休みに教室にいることがほとんどなくなった跡部。私はてっきり毎日生徒会室に行っているのだと思っていたけれど、聞けば、昼はここで本を読んで過ごすこともままあるという。確かにこの場所はひとり静かに本を読むのに良い場所だ。

「ここ誰も来ないもんね」
「ああ。先客がいるのは初めてだ」

彼が隣に座る。逆に私は立ち上がろうと、腰を浮かせた。

「じゃ、お邪魔しました。他行くね」
「アーン? 別に、ここにいればいいだろう」
「いや、跡部の邪魔になるかと思って」
「てめぇは歌でも歌うつもりか? 騒がなけりゃ問題ねえよ」

視線を私に寄越し、足を組む。呆れたと言いたげな顔ではあるものの、その艶やかな声で、隣にいても良いと許された。
そう、じゃあ、お邪魔します、と言って再び椅子に腰をおろすと跡部は満足げにフンと笑う。なんなんだ。家臣が言う通りに動いて満足、というところだろうか。
こんな思考をしているあたり、跡部のほうが立場が上だと認めているみたいで少し悔しい。……まあ、所属する部の部長で、通う学校の生徒会長なわけだから、指揮系統では完全上位に立たれているわけだけど。

「手が止まってるぜ」

ノートを見つめたきり動かない私に、横から声が飛んできた。跡部のことを考えていたのもあるけれど、それ以上に、計算が間違っているわけではなさそうなのに何故答えが合わないのかと悩んでいたから。
書き出した計算式をシャーペンで無意味になぞる。なんでこれでだめなのかなあ。

「うーん……この式間違ってるのかな」
「ああ。その公式じゃねえ」
「うそ」
「それしか知らねえのか? 他を挙げてみろ」

用いる公式が違ったのか。答えが合わないはずだ。絶対あれでいいと思ったんだけどなあ。
一行空けて、彼に言われるまま昨日おさらいした公式を書き出してみる。問題のパターンなんて一ミリも頭に入っていないと自ら証明するようで残念だけど、上から順に試してみようか。

一番上の公式でも答えは合わなかった。これは、私も違う気がしてたんだよね……!
また新しく計算式を立て、解き進める。これもだめ。
残った公式を当て嵌めるのには少し苦労した。そのままスパッとは使えなくて、あっちへこっちへと捻ってみると、パズルがぴたりと合うように正しい答えが浮かび上がる。

「解けた!」

やった!という思いで跡部を見る。
思わず声を出してしまったけれど咎められることはなく、やれば出来るじゃねえか、とお褒めの言葉をいただいた。小バカにした声色ではない。だから私は気分が良くなって、次の問題もやっつけてやろうと意気込む。

跡部は本を読みながらも、私が四苦八苦して何とか正解に辿り着く度に顔を上げ、一回一回反応をくれた。次はこの問題をやってみろ。まあまあだな。今度は2分以内に解いてみろ。そうだ、それでいい。跡部の言葉に引っ張られるようにして次々と問題をこなしていく。初めて数学が面白いと思えたので、跡部は本当にすごい。
これは、中間考査、いけるかもしれない。

ピンポンパンポン、と昼休みの終わりを告げるチャイムが鳴って、図書室の空気がわっとざわめく。促されるように、私も筆記用具を片付け始める。

「跡部ありがとね」

すぐ近くの棚に本を戻している彼の背中に声をかけた。歌はうたわなかったけれど、結局、かなり邪魔をしてしまった。

「おかげさまで赤点は避けられそう」
「当たり前だ。全力で回避しろ」
「うん」

多分跡部は分かっていない。跡部の言葉が、私の頭の中で「部活を休むな」に変換され、私にとって都合よく解釈されていること。もしかして頼ってもらえているのかも、と勝手にゆるむ頬。どうかそのまま、気付かずにでいてほしい。

「頑張るよ」

部活出たいから。

私がそう言うと、跡部は徐に私の頭に手を置いて、ぽんぽんと撫でた。なんだなんだと思って見上げる。ほんの何ヵ月か前、出会ったばかりの頃はそれほどなかった身長差がここ最近大きくなるばかりで、こうして向かい合うと顕著だ。幼さも感じられた春から、顔つきだって変わった。
少し緊張している私を知ってか知らずか跡部は目を細め、綺麗に笑った。男の子を美しいと思うのは初めてだ。

「いい心がけじゃねーの」

ぽかんと見惚れる私の耳に跡部の声が届けられ、響く。鼓膜がふるえる。
そして心までふるえてしまうものだから、わたし頑張るからねとお腹の底で誓いを立てた。



2020/03/20
title by ロレンシー

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