呼ばずとも春は来る



別れは突然にやって来た、と言うと大袈裟かもしれない。同じ学校に通っているのだから別れも何もないだろうと笑ってくれていい。けれど私には、それは大変な衝撃だったのだ。

夏の大会を終え、九月。
青森さんが部活を辞めた。

マネージャー業が嫌になったわけでも飽きたわけでもなく、他にやりたい事が、それこそ皆がテニスに向けるのと同じくらいの熱量で取り組みたいことが出来たのだと、退部届けを提出する前に青森さんは私に話してくれた。好きなものは好き、嫌なものは嫌だとはっきり区別する彼女が熱中しているその夢を語る時の興奮した様子といったら。思わず、半歩後退ってしまう。
彼女の気持ちを聞いて私の口から一番最初に出た言葉は「頑張れ」だった。
それは本心だと思いたい。
けれど臆病はすぐに顔を出す。マネの先輩のところへ退部を伝えに向かう青森さんを見送りながら、ぞわぞわと背中あたりを這う不安に震えそうになる。
たくさんのマネージャー希望仮入部生のうち、正式に入部したのは彼女と私の二人だけだった。彼女がいてくれた安心感は今日までの私を支えてくれた。先輩にちょっとくらいキツいことを言われても、青森さんが面白おかしく励ましてくれたから、私も笑えたのだ。

どうしよう。
押し寄せる孤独に構っている暇もなく、その日も部活は始まった。



人の有り難みっていうのは、その人がいなくなって初めて気が付くことが多いのよね。
青森さんが部活を辞めて、これまで二人で受け持っていた仕事を私一人で回すようになり、ヘロヘロになって帰宅したある日。母はそう言って何でもないように笑った。

目まぐるしく毎日が後ろへ流れていく。
青森さんがいなくなってひと月も経たない頃、三年の先輩方も部を引退した。部長職は引き続き跡部が担うのだし、この春から強固に実力主義が敷かれているために元々一年の正レギュラーだって何人かはおり、三年生がいなくなったからといって体制が大きく変わるということはなかった。
マネージャー以外は。
一年のマネ二人、二年のマネさん数人で一般部員を。二年の何人かと三年で準レギュラーと正レギュラーを、これまで分担して受け持ってきた。レギュラー陣が年に数回遠征に行くのにもマネージャーは着いて行くので、レギュラーを受け持つのか、一般部員を受け持つのかでマネージャーの動きは随分異なる。
三年のマネさん達が抜けたところには、順当に、二年の先輩が入ることになった。それはきっと先輩にとって嬉しいことで、何にも他意は無いと思うのだけど、

「あとはよろしく」

たった一言で、これまで一緒にサポートしてきた部員を私に任せて、楽しげに準レギュラーの輪に加わる。先輩の後ろ姿を見ていられなくて、目を背けた。
気にしちゃいけない。
私たちの学年はたまたまマネージャーが二人しか残らなかった。
そしてたまたま私が最後の一人になっただけで、部員には何も関係のないことだ。練習に支障を出しちゃいけない。
迷惑はかけられない。



「苗字、気ぃ張り過ぎちゃう?」
「そうでもないけど」
「強がりやなあ。俺くらい気楽にやったらええのに」

顔怖いで、と最後に付け足される。
最近こんな風に言われることが時々ある。目敏い忍足や滝だけでなく、比較的鈍そうな向日にも「怒ってんの?」と言われてしまった。これはよくない。余裕たっぷりにニコニコ笑うことは出来なくても、せめて人に心配をかけない程度の顔でいないと。
そんなことに気を取られていたせいか、私は仕事でミスをした。備品の発注ナンバーを間違えて、要らない物が届いてしまった。

部活の後、マネの先輩に怒られながら、自分自身に苛ついて奥歯を噛み締める。私が書き間違えてしまったからだと分かった瞬間、でもチェックしたの先輩じゃん、なんて心の中で声を大にして言い訳をしたこと。私のミスを、「大したことじゃねえだろ」と跡部があっという間にリカバリーしてくれた、それなのに、お礼の一つも言えない自分。
だって今お礼なんて口にしたら私はきっと泣いてしまうからと、言い訳を重ねてしまう。

青森さんが退部してから今日まで、いっぱいいっぱいの私を、跡部が遠くからそれとなくフォローしてくれていることに気が付いていた。もしかしてそうなんじゃないか、とハッとするまでには結構な時間を要したけれど、振り返ってみると思い当たる事はいくつもあった。いつの間にか干されていた洗濯物。普段全然話さないのに、それ手伝うよと声をかけてくれた同学年の部員。直接ではなくても、あれはーー。
サポートする側の私が選手に支えられているなんて。どれだけ情けないんだろう。私じゃない誰かならもっと要領よく、早く、細やかな気配りでマネージャー業が出来るんじゃないかと考えてしまう。私より、適任の誰かが。

人気のなくなった部室で洗濯物を畳んでいると、がちゃりと扉が開いた。反射でそちらへ顔を向けると、今一番会いたくない人がいた。ほとんど泣きそうな顔でいる私を見ても表情一つ変えない。跡部はユニフォームの襟元を緩めながら近寄ってくる。
なんで。こっち来ないでよ。言えるわけのない拒絶の言葉が胸の内で渦巻いた。

「正レギュラーの部室はここじゃないよ」

苦味を抑えきれない声で言って、机の上に山と積まれたタオルを一枚手に取る。てきぱきと畳む。恩知らずの私の言うことなんて知らないとばかりに、机を挟んで正面のパイプイスに跡部が座った。彼が腰かけるには相応しくない、あまりにも質素な椅子は、跡部が足を組んだ拍子にギイと唸った。

「酷い顔だな」
「……生まれるとこからやり直す」
「馬鹿が。つくりの話じゃねえよ」

ふんと鼻で笑って上から見下ろすいつもの仕草。
そのまなじり、その声に、言葉に似合わない柔らかさを。あたたかさを、見つけてしまう。
だから、今跡部と顔を合わせるのは、嫌だったのに。

目の奥が熱くなってぶわりと瞳に涙の膜が張る。少しでも俯いたならば、すぐに流れてしまいそう。
だけど絶対に、一粒だって、こぼしてやるものか。ぐっと瞼に力を込めて、口を一文字に結んでこらえる。言い訳なんて、泣き言なんて絶対に、音にして外に出すものか。

跡部と目と目を合わせ、強ばった声で私はようやく、ありがとうを伝えた。ぶっきらぼうで可愛げなど少しもないその言葉を丁寧に拾い、彼は口角を上げる。

「お前は、俺達が上へ行くために必要な人間だ。今は足掻け。頭を使って考えろ」

跡部はこちらが欲しい言葉を易々とくれる人ではない。思ってもないことは、きっと死んでも言わない。

「お前が倒れそうになったら、その時は……そうだな。俺様が直々に支えてやる」

心にもない約束は多分、絶対、しない。
私が知り合った跡部という人はそういう男だ。
だから……途方もなく嬉しかった。


想像する。
いつか跡部が率いる氷帝、男子テニス部が輝かしい結果を手にする時。その時私は、色々あったなあと過去になった今を振り返って、つらいことなんて何もなかったみたいに笑ってみせる。今は支えてもらってばかりの跡部に、何の心配もない心強いマネージャーになったなと言わせてみせる。

もらった言葉に頷き返事をするその瞬間に涙がこぼれてしまわないよう、目の前のタオルを一枚掴んで、雑に顔を拭う。再びかち合う彼の瞳に映る私は、少々不細工だったかもしれないけど、覚悟を決めた顔をしていた。


2020/03/11
title by エナメル

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