目蓋のうらの凍原は言う



「付き合ってほしい」

緊張をはらんだ密やかな男の声が聞こえて、足を止めた。

昼休みの図書館は、二学期中間考査を明日に控えているからかいつもより生徒が多く、煩くはないものの多少ざわめいている。それでも潜めた声がはっきり聞こえる程度には、奴と俺との距離は近い。書棚一つを隔てた向こうに、男と、告白相手の人間がいる。

盗み聞きをする趣味はない。他人の惚れた腫れたの色恋沙汰に興味もない。
立ち去るべきだ。

「好きなんだ。苗字さんのこと」

ーーしかし、俺の足は動かなかった。男が語りかけている相手の名前が、うちのマネージャーのものだからだろうか。立ち止まったまま、自分の聴覚がひどく研ぎ澄まされていくのが分かる。女が息をのむ。
同じ苗字の違う奴という可能性は低い。俺と苗字は今日、昼にここで会う約束をしていた。そこにいるのは俺が知っている苗字なんだろう。

「……ありがとう」

いつもより硬いが、穏やかな声。噛み締めるように礼を言うのはやはり苗字で、確信した途端、心臓が絞られるような嫌な感覚に襲われた。

この不快感を、前に一度経験したことがある。関東大会の試合会場で、苗字と立海の真田が話しているのを目の当たりにした時だ。そもそも知り合いだということに最初は驚きもしたが、以前彼女が神奈川に住んでいたとは聞いていたから、立海の誰かと繋がりがあっても不思議ではない。だが二人の纏う空気感は、単なる知り合いのものじゃなかった。よく知っているわけじゃねえが、あのいかにも堅物の真田が、親しくもない女を下の名前で呼ぶなど想像出来ない。苗字も、ただのクラスメイト程度の関係値では、男の名前を呼んだりはしない。俺の知っている限りでは。

指先が冷えていく気がして、両手を握りしめた。
今そこにいる男は苗字のクラスメイトで、確か以前、彼女の隣の席だった奴だ。用があって教室へ訪ねた時、視界の端にいた記憶がある。どれほど親しいのかは知らない。真田のことも、バスケットボールのことも……知らないことばかりで焦燥感が募る。
だが苗字のことを他の誰かから聞き出したいとは思えないし、昔話を聞くならば、あいつの口から聞きたい。これから知ることは、俺の目で見て得たものがいい。

「でもごめん、私は……」

まだ知らないあいつを知りたい。
頼られるのは悪くない。
二年になってから、部活の時間が待ち遠しい。
声が聞きたい。
喜ぶ顔が見たい。
苗字に、俺の隣にいてほしい。

胸に抱いていた不可解なものが、するりとほどけた。この俺様が、これは一体なんだとしばらくの間困惑していたものの正体。それは小説でも戯曲でも流行りの歌でも語られる、実にありふれたものだった。



男が立ち去り、苗字が席につきノートを広げる気配がして、俺はようやく彼女の前に出た。いつもの席、苗字の隣に座る。今日もよろしくお願いします、と馬鹿みたいに丁寧に言ってくる。いつも通りに。
まさかこいつ、男から好きだと言われることに慣れてるのか? 何もなかったような顔をしてノートに視線を落とした彼女の横顔には、動揺は浮かんでいない。

「昨日のとこまでは理解できた、と、思うんだけど」
「次の章も不安なのか」
「ハイ」
「じゃあ、この問題をやってみろ」

さらさらと書き綴られる数式を目で追う。耳にかけた髪の流れや、健康そうな色をした頬へ知らず知らずのうちに視線をやってしまっているのを自覚し、気付かれないようそっと目をそらした。何をやっているんだ、俺は。

苗字は、あの男の告白を断った。
ーー部活に集中したいから、今はそういうこと考えられない。
穏やかに、けれど決然と告げる。男は長い間を置いてから、「わかった」と呟いた。多少なりと勝機を見出だして告白したのだろう。声にありありと落胆の色が浮かぶ。
一方で、自覚したばかりの感情を伝える暇もなく間接的に断られた俺は、彼女の返事を聞いて、口元が笑むのを止められなかった。苗字が男を振ったのを喜んでいるわけではない……とは思うが、腹の底ではそういう感情もあるのかもしれない。だがそんなことよりも、彼女の返事があまりに彼女らしく、不器用で、一本気で。気に入ってしまったのだ。

「解けた!」
「見せてみろ。……合ってるじゃねえか」
「うそほんと?」
「嘘じゃねぇ」

笑ってみせると、苗字もまた笑う。

立ち聞きしたことを謝るつもりはないし、俺から話を持ち出す気もない。
苗字はこれから誰に好かれようと、引退まで同じ言葉で断り続けるだろう。もしこいつに好きな男ができたら? ……それでも、きっと変わらない。

俺たちの引退まで、一年か。ずっと先のように感じるが待てない長さじゃない。
だがその日が来たら待ったも言い訳も聞いてやらねえ。万が一にも他の男の名を出して断ろうとするなら口を塞いでやる。お前は黙って、俺のものになればいい。

待ってやるよ。その日まで。


2020/07/09
title by エナメル

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