水が流れるのは



窓から差し込む陽の光は春の盛りの頃より幾分強く照り、教室の空気をあたためている。そのせいか、午後最初の授業の今、視界に入るクラスメイトの何人かはうつらうつらと眠そうにしていた。こんな天気だ。眠くなるのも分からなくはない。教科書から目を離し窓の外を見て、今日は苗字がジローを起こすのに難航するだろうと、ふと思った。

昨年同じクラスだった二人と今年はクラスが離れ、今この時をどう過ごしているかは分からない。まあ、ジローは間違いなく寝ているだろうな。苗字は、今が数学の授業なら必死にノートを取っているだろう。英語なら少しは余裕があるはずだが……中間考査も近い。やはり真面目に授業を受けているのだろうか。
苗字は頭の出来が悪いわけではないが、何の努力も無しに氷帝の授業進度に着いていける程勉強が出来るわけでもない。理系科目は日頃寝てばかりのジローと順位を競うほど苦手としている。頭を使うより手数と時間を費やして乗り越えようとする奴だ。根性があるとも言えるし、不器用だとも言える。

どうやら俺は、そんな苗字の性格を気に入っているらしい。

テニス部の多くの部員も彼女を慕っている。彼女は信頼を勝ち取るだけの働きをし、それに報いるように練習に打ち込む部員が多数いることは、部長として有り難いと思っている。極少数の、彼女に甘え過ぎな奴等は看過出来ないが。
ーーだから、という訳ではない。しかし、俺が今日監督に進言しようとしている話をするに至る、いくつかの理由の一つではあった。

俺は、監督の許可を得て、遠くない日にマネージャーの体制を変えるつもりでいる。具体的には、苗字をレギュラー専属マネージャーにし、今のレギュラー専属のうち何人かを一般部員のマネージャーとするつもりだ。
苗字をレギュラー専属のマネージャーにする最大の理由は言うまでもない。それが氷帝の勝利に必要不可欠だからだ。彼女がレギュラー専属となれば一般部員から何らかの反応はあるかもしれないが、それさえ、今の苗字であれば上手くやってのける気がしている。
レギュラー専属から一般部員の担当へと入れ替えるのは当然三年のマネージャーになるが、こちらの方が反応は大きいだろう。レギュラー専属であることを自慢げに語ってきたような奴は、辞めると言い出すかもしれねえな。
辞めたければ辞めればいい。実力主義のこの世界。自らの意思で立ち、戦う気が無いなら去ってもらって結構だ。
……そんな考えの俺とは違う。苗字は全く異なる想いを持っていた。


去年同様、今年もマネージャー希望の一年が多数仮入部に来ては、レギュラーと接点も持てず雑用ばかりで期待外れだと文句を言う。彼女らの部への定着に精を出し、苗字は、早々に音を上げて辞めようとする一年ひとりひとりと時間をかけて話していた。放課後の練習終わりや昼休みの時間を使って熱心に説得する姿を何度見たか。
それでも、大半の一年は辞めていった。

何人目かの退部者の背を見つめる苗字に、もう放っておけと、「残りたい奴だけ残ればいい」と俺は言ったことがある。諦めの悪い彼女にそう言ってやることが、彼女の選択肢を一つ増やしてやれる方法ではないかと考えたからだ。

「そう……でもさ、跡部」

俺を見据える瞳に徒労感は滲んでいない。それどころか、揺るぎない強さをたたえて澄んでいた。

「今の部員数でこれからも部活を続けていくなら、一年のマネージャーは少なくとも五人くらい続けてもらわなきゃいけないと思う。今は部が回っていて、私達の代はそれでよくても、一年生の代で困るんじゃないかな。……みんなには、出来るだけテニスの練習に集中してもらいたいしさ」

彼女の想いを聞くのは初めてだった。こいつは何かを雄弁に語る奴ではない。不器用で、自信のない奴なのだ。
だが、言葉で表さずとも苗字は行動で示してくれていた。今のテニス部からこの先のテニス部へ、自分の持ち場を後輩のマネージャーへと繋ぐために、春が来る前から準備をしていたことを俺は見てきたはずだ。男子部員に自分の仕事をさせることがないよう、常に先回りして動いていたのを、俺は知っていたはずだ。

見誤ったのは俺の方、ということか。

「……悪かった」
「え? ちが、ごめんなんか私熱くなって……偉そうなこと言った」
「いや。お前は正しい」

俺が言ったことは忘れろと言って、ほとんど無意識に苗字の頭に手を伸ばした。撫でやすい身長差だ、と馬鹿なことを考える。
その髪に触れ、柔く撫でた。
すると苗字はくすぐったそうに笑う。その顔を見ていると無性に胸がつまるような、だが不快ではない感覚を覚える。やはり不思議に思いながら二度、三度と撫でてみた。

「なに跡部、どうしたの」

おかしそうに問いかけてくる苗字。
俺は何と返事をしていいか分からず、しかし無言のままでは負けたようで悔しい。こいつの髪をぐしゃぐしゃに撫で付けてやれば少しは腹いせになるだろうか。
……だが、ころころと笑う苗字を見ているのは悪くなく、今を崩してしまうのは勿体ないと思ってしまった。


ーー結果として、何人かの一年女子が退部届けを取り下げ、そして正式に入部届を提出し今も在籍している。
苗字は彼女らとよくコミュニケーションをとり、後輩育成に勤しんでいる最中だ。楽しそうで何よりだが、ひと区切りついたところでマネージャーの体制を変える。……変える前に、苗字には話しておこうと思っている。

他にも話したいことがいくつかあるが、部活中のあいつは基本的にあちこち動き回っているか、そうでなければ一年と話している。部活後まで熱心に教えてやっている様を見れば声をかけるのも躊躇われた。かと言って、学内ではクラスが別、階も違う。移動教室ですれ違うことも少なく、去年と比べて話をする機会は明らかに減っていた。
クラスが離れただけでこうも違うのか。

たった一年、然れど一年、当たり前に傍にいた女の不在を俺はひしひしと感じ、そして同じだけ、この時ばかりは自分自身を鬱陶しく思った。あいつが俺の視界にいない。だから何だ。少しばかり部の業務連絡に時間がかかるだけだろう。部活以外の話題は緊急性が低いどころか、必要不可欠な連絡でもない。こんな風にうだうだと考える理由など無い。……俺らしくねえ。

授業が終わり、携帯電話を取り出す。今日こそはあいつを捕まえて話をしようと、メッセージを打ち込んだ。

「跡部」

そんな折に突然真横から彼女の声が聞こえ、不覚にも俺は驚いてしまった。
出来るだけ顔に出さないようそちらへ向くと、音楽の教科書を手にした苗字が俺を見下ろしている。

「……なんだ」
「ちょっとお願いがありまして……あとで少しいいかな」
「今は言えないことか?」
「そんなことはないけど、誰かにメール? するんじゃないの?」

お先にどうぞ、と手振りも合わせて奨めてくるが、用があったのはお前だ。……とは言わず、手間が省けて無用になった携帯電話を机に伏せる。

「いや、いい。何だ」

先を促すと、苗字は少し眉をさげてみせた。

「中間考査前に少しだけ数学見てくれないかな。部活のあととかお昼とか、……でも無理にってわけじゃなくて、もしよければなんだけど」

萎んでいく声。部活外のこととなると、遠慮がちな奴だ。
だが、何故俺に言う。苗字のクラスには忍足がいる。忍足も学年トップクラスの成績で、チームメイトとしての苗字と忍足の関係は悪くない。教わるには十分足る相手が近くにいながらどうして俺のところへ来るんだ。
疑問が浮かぶ。しかし直接彼女に聞くのは躊躇われた。

「仕方ねえな」

考えながらも言葉は滑るように口から出る。俺の返事を聞いて、ありがとうと嬉しそうな顔で笑う苗字。
その表情をもたらしたのが俺だと思うと、もう胸がつまるどころではなかった。痛みすら覚えるほどに、軋んだ。


2020/05/10
title by 雨花

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