その日は、彼女の「おかえりなさいませ」という鈴を転がすような声の出迎えがなかった。

仕事で疲れた心身は彼女のその言葉ひとつでその疲れが取り払われるので、毎日彼女が部屋の入り口で出迎えてくれるのを内心ひっそりと楽しみにしていたのだ。それなのに。

「…ロヴィーナちゃん?」

疑問符付きで呼んだ名前は、広い部屋に虚しく響いて消えていった。更に何度か続けて呼んだが、返事どころか物音すら聞こえない。返ってくるのは、壁に反響した己の声だけだった。

アントーニョは不安になった。もしかしたら具合が悪くて倒れているのかもしれない。はたまた自分の留守中に連れ出されてまたいじめにあっているのかもしれない。
そんな負の連想が次々を頭を霞めていく度、全身の血がさあっと引いていくような感覚が襲った。

アントーニョは慌ててロヴィーナを探した。まずは台所、リビング、書斎…乱暴にドアを開けて見回すが、彼女の姿は見当たらない。
そして次にロヴィーナの寝室へ探しに行った。さすがにここは女性の部屋ということもあるので一応数回ノックしたが、やはり返事は無かった。そっとドアを開いて中を覗くと、ようやく彼女の姿を確認して、安心したアントーニョはへたりとドアに寄りかかった。

ベッドの上に使用人の服のまま横たわる彼女は、どうやらアントーニョの帰りを待つうちに眠ってしまったようだ。すうすうと小さな寝息を立てて長い睫毛を揺らすその寝顔は、普段の大人しく慎んでいる彼女からは想像もつかないほどあどけなく感じた。

思い返せば、連日仕事が忙しくて、この部屋に戻る時間はいつも日付が変わる頃だった。それなのに彼女はいつも自分が帰るまで起きて待っていてくれていた。知らず知らず彼女の睡眠時間を削っていたのだ、こうして眠ってしまうのも無理ない。

申し訳ない気持ちで、彼女を起こさないように布団を掛けようとした時、ふいにロヴィーナが寝返りを打った。横を向いていたその身体が仰向けになる。
アントーニョは布団を手に持ったままぴたりと止まった。横を向いていたことで半分隠れていたロヴィーナが綺麗な顔が露になり、思わずまじまじと見つめた。

柔らかそうな栗色の髪に、きめ細やかな肌、すっとした高い鼻に形の良い唇。花も恥じるような彼女の美しさに、アントーニョはごくりと唾を飲み込んだ。

何かがアントーニョの中でぷつりと音をたてて切れた。

ロヴィーナに覆い被さるような体勢でロヴィーナの頭の隣に手を置くと、ベッドのスプリングがぎしりと鳴り、アントーニョの理性を興奮させた。
顔にかかる髪の毛を左右にかき分けて、頬にそっと手を添える。
すると、夢でも見ているのか彼女は子供のようにうっすら口角を上げて、その手に頬を擦り寄せてきたのだ。

アントーニョは堪らなくなった。

ベッドに身を乗り出して、ロヴィーナにゆっくりと顔を近付ける。その距離、僅か2センチメートル。しかしアントーニョはぴたりとその動きを止めた。


彼女とこの部屋で生活することを提案した時の約束が、頭を霞めたのだ。自分で言った。自分で誓った。
『絶対襲ったりせえへんから』

それなのにこの状況は何だ。
今この瞬間に、理性に負けて思い邪無い彼女に手を出すという事は、王子として男として、そして1人の人間として後に非道く罪悪感を背負うことを意味する。
そして何よりも彼女からの信頼を失ってしまう。

駄目だ、そうなったら嫌だ…!

アントーニョはむくりと体勢を立て直し、そっとロヴィーナに布団をかけて足速に部屋を出た。

「あ、危なかっ、たわ…」

ばくばくと止まることを知らない心臓部分の服をぎゅうと握りしめ、自分の理性の緩さを深く反省した。
でもまた同じようなことがあれば、次こそはもう自制心を止められる自信は、アントーニョにはなかった。



アントーニョが部屋を出ていく気配に、ロヴィーナはぱちりと瞼を開いた。途端真っ赤に染まる頬。

(いっ…今の何だったの!?)



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嶋田様に捧げます!
実は本編が終わったらロヴィーナに手を出しちゃう王子やりたいなと思っていたので、リクエスト頂いた時、ktkr!って思わずガッツポーズしましたw
予定より早く書けて楽しかったです!
些細な物ですが、喜んで頂けたら幸いです。
リクエストありがとうございました^^!









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