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5-10:Scar.―悪夢の跡、失った証―

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 宿のベッドに寝かせてからもエミルは起きる気配はない。
リーガルの方は改めて足を手配してくれるらしく、レザレノの支社に向かい、しいなの方も里の者と連絡をとると言って宿を出ていった。
部屋に残されたのはマルタとアンジェラ、そして眠るエミル。
一度買い物に出てから戻ってきても、エミルはまだ目覚めていなかった。

「エミル、大丈夫かな」

「お医者様が言っていたでしょう?過労だって」

表情を曇らせるマルタにアンジェラは買ってきたお菓子を渡して微笑んだ。
マルタの好きそうな甘いマフィンを選んだつもりだが、マルタの表情は晴れない。
手渡したマフィンを握りしめ、マルタはゆっくりと口を開いた。

「それだけじゃなくて……」

言い辛いということは父親絡みのことだろうか。
 じっと言葉を待っていると、マルタが顔を上げた。

「ラタトスクモードの時の記憶は、エミルにはないよね。エミルがラタトスクに憑依されてるっていうより、エミルが二人いるみたい」

予想外の言葉に、思わず息をのむ。
マルタはエミルのことをよく見ているとは思っていたが、ここまで気づいているとは思わなかった。
驚きつつも平静を装い、アンジェラは気づかないふりをして笑みを浮かべた。

「もし、エミルが二人いたらどうするの?」

「二人ともエミルだよ。臆病だけど優しいエミルと、怖いけど優しいエミルも二人ともエミルだから」

迷わず答えるマルタの眼差しは真っ直ぐで迷いがない。
けれどまだ何か不安があるのだろうか。
空色の目はどこか揺れているように見える。

「アンジェラはどうなの?みんなみたいに、もう一人のエミルは怖いと思う?」

 怖い。
心の中でそう呟いてみて、傷の残る胸に服の上から触れる。
怖いかどうかと聞かれれば怖くはない。
最初はラタトスクが憎かった。
リヒターからアステルを奪い、彼から笑顔が消えた。
アンジェラから大切なものを奪ったラタトスクは今でも許せないと思う。
けれど、憎いなら殺すチャンスはあったはずだ。
メルトキオで爆発に巻き込まれそうなとき、あのまま放置しておけばなんらかのダメージを与えられた筈。
それなのに、自分はそれをしなかった。
 
「私は……」

「うわぁーーーー!」

口を開きかけたところで、エミルが叫びながら飛び起きた。
また悪夢でも見たのだろうかと思ったが、胸に走る痛みにそれが間違いだったとすぐわかる。
アンジェラは痛む胸を押さえ、静かに息を吐き出した。

「エミル!どうかしたの!?」

「……マルタ……か……」

だが、顔を上げたエミルの目は赤。
マルタもその目を見て気づいたのだろう。
息をのみながらも、汗をかく彼を心配げに見つめた。

「あなた……もう一人のエミル、だよね」

「……分るのか?」

 言い当てられて驚いたのか、赤い目が大きく見開かれる。
目が赤くなれば誰でも気づくと思うが、まさか彼には目の色が変化している自覚がないのだろうか。
こくりと頷いたマルタに、彼は胡坐をかきながら自嘲気味に笑った。

「ああ、そうか。俺が邪魔だったんだな」

「違うよ!」

首を横に振り、大きな声を上げるマルタにラタトスクが大きく息をのむ。
こんなことを言われるとは思わなかったのだろう。
困惑気味の赤い目を見つめながらマルタは言葉を続けた。

「ただ、あの時以来、戦っているときにしか姿を見せなくなったから……心配して」

「……そう……か……。そういえばお前、俺を庇ってくれたな」

「……え?」

やはりもう一人が表に出ている間のことも覚えているのだろう。
首を傾げるマルタに彼は俯いた。
いつもの威勢の良さはどこにいったのだろう。
戦場では真っ先に剣を抜き、敵に刃を振り下ろすラタトスクとはまるで別人だ。

「……俺は……お前に必要な存在か?」

「当たり前だよ!キミもエミルなんだから」

ぽつりと呟く彼にマルタが大きく頷く。
存在を肯定されて嬉しかったのか、ラタトスクの口元がぴくりと動いた。
誰もが彼を否定する。
どれだけ大きな力を持っていても、その凶悪な性格から彼を否定する。
ラタトスクは自分を必要としてくれるたった一人の女の子に、どこか期待のこもった目をそらしながら僅かに口を尖らせた。

「……また、顔を出しても平気か?」

「もちろん」

俯き気味なその表情が緩んだのが少し離れていても分かる。
そこにいつも凶悪な目をしていたラタトスクはいない。
安堵したような表情は、エミルとよく似ている気がした。

「……ありが……とう……」

やっと聞き取れるような、小さな声は彼に似つかわしくない。
まるで借りてきた猫のように大人しいその姿に小さく笑った、その時。

「あれ?マルタ、どうしたの?」

 僅かに額が光ったかと思うと、こちらを見る目は緑に変わっていた。
突然の変化に戸惑っているのだろう。
瞬きを繰り返すエミルに、マルタはそっと息をのんだ。

「どうしたの……って、今まで話、してたじゃない」

「……え?そうだっけ?」

首を傾げ、頭をかくエミルにマルタが不安げに眉を寄せる。
やはりエミルは何も覚えていないのだろう。
この会話さえ、彼は聞いているのだろうが、とアンジェラはエミルに歩み寄った。

「さっきまで眠っていたものね。寝ぼけているのよ。気分はどう?」

大丈夫だろうと思いながらエミルの額に手を当てる。
少し怠そうだが熱もなく、脈も落ち着いているようだ。
ごめんね、と苦笑するエミルにマルタが微かに俯いた。

「エミル……。ごめん。何でもないの。私の勘違い……」

「え?本当?」

「もう少し寝てた方がいいよ、エミル」

首を横に振るマルタにそうだね、とエミルが頷く。
異常はないとはいえ、まだ本調子ではないのだろうか。
だがそう言うマルタの方も顔色が悪い。
ここ最近の心労がたまっているのだろう。

「マルタもね。二人とも休んだ方がいいわ」

ね、と同意を求めれば躊躇いがちにマルタも頷いた。
二人には休めるときに休んでもらった方がいいだろう。

「そうしなよ。お休み、マルタ」

「うん、お休み」

横たわるエミルに、マルタも踵を返して部屋を出た。
扉を背に俯くマルタが固く唇を噛みしめている。
何も知らないマルタは不安でたまらないのだろう。
彼女の不安が少しでも軽くなるのなら、とアンジェラはそっと口を開いた。

「彼には、感謝しているわ」

努めて優しく言葉を紡げば、マルタの視線がゆっくりと上がってくる。
だが何のことかわからないのだろう。
不安げな空色の瞳にアンジェラは微笑んだ。

「さっきの話の続きよ。ここまで、彼も頑張ってくれたもの。彼の力がなければ、もう倒れていたかもしれないわ」

まだラタトスクを許したわけではない。
それでも、彼がここまでマルタを守り、コアを集めて道を切り拓いてきたのは確かだ。
きっとアンジェラだけではここまで来れなかった。
出会うべくして出会ったのだろうが、それでも一応は感謝している。
それだけは認めようと、アンジェラはマルタに微笑んだ。

「やっぱり彼は、あなたの王子様なのよ」

 アンジェラの言葉にマルタも安心したのか、安堵の息を零すと休むと言って自分の部屋に戻って行った。
アンジェラも少し休んだ方がいいかもしれないが、怠い身体と頭は妙に冴えていてこのままでは休めそうにない。
アンジェラは一階にあったロビーのソファに腰かけると大きく吐き出した。
 ラタトスクは、マルタのことを本当に大切にしている。
今の彼なら、マルタに危害を加えるようなことはないだろう。
あの優しさを上手く操作出来れば、ラタトスクも世界を滅ぼそうとしないかもしれない。
 思考を巡らせながら、アンジェラは古傷がある場所を服の上から撫でた。 
ラタトスクの出現と共に痛むこの傷も、一体何なのだろう。
最初は心因反応かと思っていたが、それも何か違うような気がしてならない。
旅を始めた頃なら、ラタトスクへの恐怖心と考えられたが、今でもラタトスクを恐怖と思っているかと言われれば、否定出来る気がする。
アンジェラにとって、全てを奪ったラタトスクは残虐非道な魔王だった。
だがそのラタトスクが徐々に変わってきていることを感じている。
ラタトスクの心は変わらないと思っていた自分がもしかしたらと、淡い期待さえ抱いている。
だが、この胸の痛みはあの日から変わることなく、むしろ悪化し続けている。
まるで、ラタトスクへの憎しみを忘れるなと言わんばかりに。

「私は……」

ラタトスクをどう思っているのだろう。
アンジェラにとって大切なのはリヒターだけ。
それ以外のことはどうでもいいと思っていたのに、最近ではリヒターの為だけに動いていた自分ではなくなってきた気がする。
闇の神殿ではリヒターを庇ったが、岬の砦ではラタトスクであるエミルを守ろうと口を開いてた。
リヒターの為と言いながら、それだけではない気持ちもあり、矛盾していると思わず嘲笑が零れる。
自分のことなのに、自分が何を考え何を思っているのか分らない。
もどかしい想いに、アンジェラは胸にたまった重い息を吐き出すように大きく息を吐き出した――――




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