0-04:Promotion.―蹴落として、その上へ―
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「どうして私がこんなことしなきゃいけないの?」
「必要なことだからよ」
箒を手に口を尖らせるアリスに、アンジェラは雑巾で机を拭きながら答える。
今日の仕事はつい昨日まで倉庫になっていたこのD会議室の掃除だが、アリスは今日の仕事が不満でたまらないのだろう。
戦闘班である彼女は自分の力を揮いたいのだろうが、正直なところ戦闘班の仕事というのはそう多くはない。
これから多くなるのだろうが、今のヴァンガードは戦闘班だろうと非番はこうした雑務に借り出されるのだ。
「それより、デクスはどこ?こういうときに役立ちそうなのに」
「デクスは任務で街を出てるのよ」
何人か若い男手があるとはいえ、力仕事は人手が多い方がいいに決まっている。
アリスはいつもデクスと一緒に任務をこなしていると思ったのだが、一緒じゃないとは珍しい。
機嫌が悪いのは彼がいないことも影響しているのだろうかと、アンジェラは小さく笑った。
「彼がいないと寂しいの?」
「そんなわけないでしょ。いない方がせいせいするわ」
「でもいつも一緒にいるじゃない」
「あれはデクスが勝手に付きまとってるだけよ」
アンジェラが何を言ってもアリスは否定するばかり。
「あらそうなの?」
「そうよ」
こうしてむきになるのがいい証拠だということにアリスは気づいているのだろうか。
口ではこう言っているが、アリスがデクスを最も信頼しているというのは見ていれば分かる。
最も、それを言っても彼女は否定するだけなので何も言わないが。
だがアンジェラの何か含みある笑みに気付いたのだろう。
アリスが口を開いたとき、扉が開いた。
「入りまーす」
入ってきたのはマルタだ。
また暇つぶしにでも来たのだろうか。
アンジェラがここにいるとは知らなかったのか、マルタはアンジェラを見ると嬉しそうに駆け寄ってきた。
「アンジェラ!」
「あらマルタじゃない。こんな所にどうしたの?」
「私、今日はここの監督に来たんだよ」
言ってマルタはどこか誇らしげに笑った。
言われてみれば確かに彼女が今日の監督だったが、マルタはいつも通りただのお飾りの仕事をしに来たに違いない。
「アリスもいたんだね。こんにちは」
続いてアリスを見つけたマルタは親しげにアリスに声をかけた。
対照的なマルタ達だが、二人は仲がいいのだろうか。
「こんにちは。マルタちゃん」
にっこりと笑ったアリスだが、完璧な作り笑いなのはアンジェラには分かる。
やはり二人はあまり仲が……というよりマルタが一方的に仲良くしようとしており、アリスが鬱陶しがっているのだろう。
そうとは知らず、『ちゃん』をつけて親しげに名前を呼んでくれたのが嬉しかったらしいマルタは口元を緩めた。
「あのね、アリスちゃんこの前私の手作りクッキーをデクスって人にあげたでしょ」
マルタの言葉に、微かにアリスの口元がひきつる。
彼女も、そしてデクスもあの兵器の犠牲となったのか。
こうしてここに立っているということは、そう大きな被害を受けなかったかもしれないが、心身ともに大きなダメージを受けたに違いないとアンジェラは同情した。
「あぁ、あげたわよ」
「あの人、アリスちゃんの王子さまなの?」
きらきらと目を輝かせるマルタに、アリスが箒を強く握りしめたのが見えた。
そして流れる沈黙。
たまりにたまった怒りが爆発するだろうと、アンジェラは一歩下がって二人を見守ることにした。
「どうしてそう思うの?」
「だって私のクッキーあげてたもん。それってそういうことでしょ?」
先ほどより声のトーンが下がったことにマルタが気付いた気配はない。
変わらずに熱い視線を送り続けるマルタをアリスは鼻で笑った。
「さすがはお姫様ね。言うことが違うわ」
「じゃあやっぱり!」
「バカね。クッキーがとーってもまずいからデクスに食べさせたんじゃない」
笑い声を上げるアリスにマルタの笑みが凍る。
自分で作ったクッキーを自分で食べたことがなかったのだろうか。
笑みが消えたマルタを見てアリスは愉しそうに笑った。
「アリスちゃん、あんな固くてしょっぱくて焦げてるの食べたらお腹壊しちゃう」
「……あ、あんたねぇっ!」
強くアリスを睨むマルタだが、アリスは尚も愉しそうに笑っている。
このまま見ているのも楽しそうだが、それではいつまで経っても仕事が終わらない。
いがみ合う二人を何とかしようとアンジェラは二人の間に割って入った。
「ほら、二人ともお遊びはやめなさい。みんな困っているわよ。ここは遊び場じゃないんだから」
「遊んでない!」
強く返してきたのはマルタだ。
アリスの方はというと自分は悪くない、関係ないと言わんばかりにアンジェラから目をそらすだけで何もしない。
ひとまず単純なマルタの方からなんとかしようと、アンジェラは笑みを作った。
「じゃあちゃんとお仕事できるわね。総帥の力になりたいんでしょう?」
先日の言葉が本当なら、父を心配する気持ちが本当なら、きっとこれで動いてくれるはず。
マルタとはそういう女の子だ。
甘ったれで、思い込みが激しくて、単純。
その読みは正しかったらしい。
分かった、と不服そうではあるがマルタは頷いてくれた。
「ほら、アリスそっち持って」
「お姫さまは邪魔なんですけど〜」
マルタはやる気を出してくれたのに、アリスの方はまだ仕事をする気がないらしい。
アリスはマルタが運ぼうとした机に座ると箒を軽く振って笑った。
安い挑発に、再びマルタの怒りが込み上げてきているのは明らかだ。
アンジェラは大きくため息をつくと、アリスの手を引っ張って机から下ろした。
「ほら、幼稚なことはやめなさい。いつまで経っても掃除が終わらないでしょう?」
「そうだよ。私が監督なんだから、ちゃんとしてよ」
アンジェラを味方につけたマルタが強気に出る。
二対一だがそんなことでアリスが怯むはずがなく、アリスは再び机に腰かけると箒を手に笑った。
「あらそうなの?困ったわねー。パパのところに泣きついたらどう?お・ひ・め・さ・ま」
アリスの挑発にマルタは耐えるように拳を握りしめてはいるが、彼女が自分を抑えきれるはずがない。
顏を上げたマルタは強くアリスを睨みつけた。
「んもう!あったまきた!知らない!」
踵を返してマルタが部屋の入口に歩いていく。
甘やかされて育った彼女は、馬鹿にされることに慣れていないのだろう。
このまま放置しても仕事はできるが、それではマルタに楽をさせてアンジェラの仕事が増えるだけ。
そっと息を零して、アンジェラは扉を開けようとするマルタの背に声をかけた。
「知らない、じゃないでしょう?あなたは監督なのよ」
「だってアリスが私の言うことを聞かないんだもん!」
勢いよく振り返ったマルタの目にはうっすらと悔し涙が滲んでいる。
怒りの沸点が低いマルタだが、ここまで怒っているのは初めて見る。
アンジェラはいつもより言葉を選んで、ゆっくりと口を開いた。
「それは貴女がアリスに信用されるだけのことしていないからでしょう」
「でもアリスが私のことバカにするんだもん」
ぷいっと頬を膨らませてマルタが視線をそらす。
話は聞いてくれるようだが、自分は悪くないと思っているようだ。
本当に、彼女は甘い。
何も分かってない。
人とは甘やかされて育つとこうなってしまうのか。
こちらを見ようとしないマルタをまっすぐ見つめながらアンジェラは再び口を開いた。
「貴女は監督である以上、最後まで職務を全うする義務がある。それを放棄するということは自分に課せられた責任から逃げるということよ」
「でも、仕事ならもっとすごいのがやりたいよ」
「だったら尚更よ。こういった小さな仕事の積み重ねが信頼と実績になるの。それを放棄し続けていれば信頼されないのは当たり前。アリスにバカにされるのも当然よ」
マルタがここでしている事といえば、花を育てたり、ブルートのために弁当を作ったり、暇そうな構成員を見つけてお茶をすることぐらい。
そんな仕事とはいえないことばかりをしている人物を誰が信用できるだろう。
それを指摘しない周囲も周囲だが、それに気付かない本人にも落ち度はある。
「でも」
「言い訳しても自分の立場を悪くするだけよ。マルタ」
厳しく言えば、マルタの目が潤んだ。
これ以上言っては本格的に泣き出してしまう。
それはそれで面倒なことになる。
アンジェラはそっと息を吐き出すと、優しい笑みを作ってマルタの傍に歩み寄った。
「総帥は貴女なら出来るって、ここを任せられると思ったから貴女を監督にしたんでしょう?だったらやり遂げないと。お父様の信頼に答えたくないの?無力な女の子のままでいいの?」
そっとマルタの目尻に浮かんだ涙をぬぐって、アンジェラは作り物の笑みを深めた。
彼女は親に甘やかされて育ったお姫さまだが、だからこそ父親に対する愛情が深い。
その心をくすぐってやれば、マルタは確実に動くはずだ。
「本当に変えたいことがあるなら、自分から動かなくちゃ何も変わらないわよ」
俯いたマルタは自分の中で考えをまとめているのか、中々動こうとはしない。
だが、アンジェラにはマルタがなんと答えるか分かっている。
マルタがこの答えにたどり着くように誘導したのだから。
どのくらい押し黙る彼女を見守っていただろう。
ややあって、マルタはゆっくりと口を開いた。
「……分かった」
ほら、やっぱりそうだ。
相変わらずマルタは扱いやすい。
「ありがとう。それじゃあ一緒に頑張りましょうねマルタ」
小さく頷いたマルタに満面の笑みを作る。
思った通り、きちんと監督としての仕事を全うしてくれるらしい。
マルタは箒を手にすると、一部始終を見守っていた構成員達と何か話を始めた。
「よくやるわね。お姫様のご機嫌取りって疲れない?」
「私は貴女と違って大人なのよ」
冷たい目をするアリスににっこりと笑ってみせる。
マルタは単純で扱いやすいが、アリスはそう簡単に動かないだろう。
「アリスもお遊びはここまでにして、仕事しなさい」
「アリスちゃん、あーんなお姫様の言うこと聞きたくないもん」
やはりアリスとマルタの相性は最悪のようだ。
自力で上に這い上がろうとするアリスと、困った時は父親や誰かに泣きつくマルタ。
アリスは甘ったれたマルタが気に入らないのだろう。
だがアリスのこれも一種の甘え。
アンジェラは内心ため息をつくと挑むように笑みを浮かべた。
「じゃあ私の言うことなら聞けるかしら?」
アンジェラの笑みにアリスの眉間に微かな皺が寄る。
いくら彼女がマルタより大人びているとはいえ、アンジェラより年下なのは確か。
こんな子供に自分が負けるわけがない。
アンジェラはにっこりと笑みを作ると、アリスの手を引いて机から下ろした。
「私は技術班のリーダーであなたは戦闘班の下っ端構成員。組織に属する以上、上の命令には絶対服従よ。それが嫌なら今すぐ出て行きなさい。最も、ここを出ればただの無力な女の子に成り下がるだけだということは、頭の良いいアリスなら分かると思うけれど」
ヴァンガードにいる以上、自分勝手な行動は許されない。
それが組織というのもの。
確かに自分の力で道を切り開こうとする姿勢は大切だが、郷に入れば郷に従え。
私情を挟んで嫌だと駄々をこねるのは子供と同じだ。
「悔しいなら、貴女も戦闘班のリーダーになりなさい。そうすれば私の命令なんて聞かなくてすむわよ」
所属している班が違うとはいえ、リーダーであるアンジェラの方が上というのは事実。
アリスの性格を考えれば人の下に就くというのは性に合わないだろうが、それが嫌ならアンジェラより上にいくしかない。
更に笑みを深めれば、アリスも笑った。
「でも私、弱い人って嫌いなのよね」
だがそんなことにアリスが正直に従うはずもなく。
持っていた鞭を取り出すとそれを軽く振った。
「うわぁあ!」
ガラスが揺れると、構成員が声を上げた。
彼らの視線の先には、開けっぱなしになっていた窓枠に足をかけるウルフの姿。
あのウルフはアリスの合図一つでこの部屋に飛び込んでくるだろう。
たちまち逃げ出す構成員達にアリスは勝ち誇った笑みを浮かべた。
「あら、奇遇ねアリス」
あの笑みを崩すのはさぞ楽しいだろう。
自然と笑みが浮かぶのを感じながら、アンジェラは静かに手を翳した。
「私もよ。――ダークスフィア」
即座にマナを集めてウルフの頭めがけて術を放てば、ウルフは文字通り尻尾を巻いて逃げて行った。
詠唱なしで術を放ったのがそんなにも意外だったのだろうか。
目を丸くするアリスにアンジェラはにっこりと笑った。
「施設内での魔物の徘徊は禁止されているのを忘れたのかしら?私も鬼じゃないから、今なら見逃してあげられるけど」
言って再び手元にマナを集める。
あの日からコアの研究をする傍ら、魔術の腕も磨いてきた。
力があれば世界は広がる。
力があれば無力に嘆くこともなくなる。
彼に、一歩でも近づくことが出来る。
さあ、アリスはどう出てくるだろう。
笑みを崩さずアリスを見つめていると、彼女は口の端を上げて笑った。
「アリスちゃん、あなたの事割と好きかも。自分の力で何かをやれる人は嫌いじゃないわ」
「あら、それは光栄だわ」
敵意の消えたアリスに、アンジェラもマナの塊を霧散させる。
彼女の価値観は実にしっかりしている。
こんな子は嫌いじゃない。
少なくとも、誰かに頼ることでしか生きられない無力な人間よりずっと好きだ。
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