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37: Replica.[1/2]


 西へ西へと、タルタロスは進んだ。やがて見えてきたのは大きな滝。ティアの話では、外殻大地の海水がここに落ちてきているらしい。その水量は凄まじく、ユリアシティを覆い隠すほどの大瀑布となっているが、海水は気化しているために水圧で潰されることもないとのことだ。
 街全体はドーム状となっており、陽の光は届かないが、街灯のともる道は暗くはない。明るく思えないのは、静かすぎるからだろうか。遠くに人影は見えるものの、活気あふれる街というわけではなく、静かな印象をうける。

「ふぇ……!これがユリアシティ?」

「ええ。奥に市長がいるわ。行きましょう」

 周囲を見渡すアニスに頷いて、ティアが先頭を歩く。思えば、前を歩くティアというのも珍しい気がする。どちらかといえば、先頭を行く人を見守るといった印象が強い。彼女の故郷なのだからティアが率先して歩くのは当たり前のことだが、とリンネは動かないルークに声をかけた。

「ルーク、行かないの?」

「……うっせぇ」

地面を睨むルークを、ミュウが心配げに見上げている。ご主人様、と小さな手でルークの靴に触れるが、主人は動かない。まだ混乱しているだろうから、無理もない。ティアたちを追いかけて、ルークと二人でここに残ると伝えるべきだろうか。そう考えて前を向けば、ため息まじりのティアがこちらを見ていた。

「……いつまでそうしているの?みんな市長の家に行ったわよ」

「……どうせみんな俺を責めるばっかなんだ。行きたくねぇ」

返された声は小さく、すべてを拒絶していた。どうしたものか。やはり市長の元へはティア達だけで言ってもらおうとした、そのとき。

「とことん屑だな!出来損ない!」

 背後から飛んできた声に、咄嗟に身を翻して剣の柄に手を当てる。アッシュは無事だったらしい、と安堵しながらも警戒しているとティアが待って、と声をかけてきた。

「彼が、私を助けてくれたの」

もしあのときティアがヴァン一味に連れ去られたままなら、きっとリンネ達はここにはいない。間接的に恩人といったところだろうか。とはいえ、それだけでは警戒を解く理由にはならない。剣から手を離しつつアッシュに向き直れば、彼はルークの脇をすり抜けてこちらへ……街の方に向かっていく。

「……お、おまえ!どうしておまえがここにいる!師匠はどうした!」

「はっ!裏切られてもまだ『師匠』か」

鼻で笑うアッシュに、ルークが息を呑む。この状況でも、何か勘違いがあったのだと信じたかったのだろう。アクゼリュスの崩落も、その引き金を引いてしまったのは自分の力ではないと。ややあって、すがるような視線が地面に落ちた。

「……裏切った?じゃあ師匠は、俺にアクゼリュスを……」

「くそっ!俺がもっと早く、ヴァンの企みに気付いていればこんなことにはっ……!」

舌打ちし、振り返った翡翠色の鋭い視線が、ルークに突き刺さる。

「お前もお前だ!何故深く考えもせず超振動を使った!?」

「お、おまえまで俺が悪いって言うのか!」

「悪いに決まってるだろうが!ふざけたことを言うな!」

「俺はわるくねぇっ!俺は悪くねぇっ!俺は……」

「あなたは、ヴァンの目的を知ってるの?」

このままでは話が進まない。アッシュはここに何をしに来たのだろう。何を、どこまで知っているのだろう。知っていることがあるなら、少しでも教えてほしい。リンネが一歩前に進み出れば、アッシュは口の端を上げた。

「俺はそこの屑とは違うからな」

「屑じゃねぇ!俺はっ」

「黙れ!レプリカってのは脳みそまで劣化しているのか!?」

吠えるルークに、アッシュが更に大きな声をかぶせる。二人の声が似ているからだろうか。同じ声が響いて、妙な違和感がある。他人とは思えない。視線を向ければ、ルークはアッシュを見つめ眉をひそめていた。

「レプリカ?そういえば、師匠もレプリカって……」

「……おまえ、まだ気付いてなかったのか!はっ!こいつはお笑い種だな!」

「な、なんだ……!何なんだよ!」

笑い出すアッシュに、ルークがたじろく。わからないことばかりが増えて、自分は完全に蚊帳の外。不安になるのも無理なはい。レプリカ、というのは比喩なのだろうか。じっと言葉を待てば、アッシュは静かにルークに歩み寄った。

「教えてやるよ。『ルーク』」

「アッシュ!やめて!」

「ティアも、何か知ってるの?」

問えばティアは口を噤んだ。彼女も、何か知っているのだろう。何を隠しているのか、隠そうとしているのか。固く口を閉ざしたティアと対象的に、アッシュは優越をにじませた笑みを浮かべ口を開いた。

「俺とお前、どうして同じ顔をしてると思う?」

「し、知るかよ」

震える声に、アッシュが喉の奥で笑う。まるで獲物を追い詰めた猫のようだ。震える手を握りしめるルークに、アッシュは笑みを深めて上げられた前髪をくしゃりと崩した。

「俺はバチカル生まれの貴族なんだ。七年前にヴァンって悪党に誘拐されたんだよ」

聞き覚えのある話だった。思わず息をのめば、ルークより深い、深い、深紅の髪がはらりと落ちる。その髪は、その目は、その声は、生い立ちは。まるで鏡のようにルークと同じだった。レプリカ。その言葉の意味が、胸の奥で渦を巻いた。同じ姿、同じ存在。他人のように思えなくて、身体が震える。

「……ま……さか……」

掠れて消えてしまいそうなルークの小さな声に、彼は笑った。

「そうだよ!おまえは俺の劣化複写人間だ。ただのレプリカなんだよ!」

「う……嘘だ……!嘘だ嘘だ嘘だっ!」

叫び声とともに、ルークが剣を抜く。このままではまずいと、リンネはルークの手を掴んで首を横に振った。

「ルーク!気持ちはわかるけど落ち着いて、」

「うるせぇ!」

リンネの手を払いのけ、ルークがアッシュに斬りかかる。それを剣で受け止め、アッシュは鼻で笑った。

「やるか?レプリカ!」

「嘘を、つくなぁっ!」

ルークが剣を振り上げ、アッシュも剣を振り上げる。剣と剣が同じ型でぶつかり合い、火花が散る。横に薙ぎ、下から大きく斬り上げ、間髪入れず下ろされる。同じ姿、同じ太刀筋は申し合わせていたように見事に揃う。数えるほどしか顔を合わせたことのない人間同士が、こんなことができるわけがない。これは偶然ではない。大ぶりの荒い太刀筋をアッシュが真似ているのだろうか。彼は完全にルークの思考を読んでいる。ルークが右手を突き出せば、アッシュも左手を突き出した。

「「烈破掌!」」

二つの声が重なり、赤い衝撃波が弾ける。ルークは吹き飛ばされながらも膝をついて立ち上がり、アッシュは空中で身を翻しその様子を見下ろしていた。同じ型でも、精度が違う。肩で息をしているルークに対し、アッシュは息一つ乱れていない。実力差は明らかだった。

「俺は……おまえなんかじゃない!」

「認めたくねぇたくねぇのはこっちも同じだぁっ!」

それはきっと、彼らが赤の他人などではなく。『ルーク』と、『ルーク』のレプリカだから為せる技なのだろう。ルークの叫びを、彼はその剣をもって否定したのだ。止めなければ、と思うが怖いくらい息のあった攻防にうまく間に入れない。それでも止めないわけには行かない。タイミングを見計らっていると、ルークの足元に亀裂が入った。

「ロックブレイク!」

アッシュが剣を掲げると同時に、リンネはルークを抱えて飛び退いた。それでも完全に避けきれず、強打した足に顔をしかめながらもぐっとこらえて顔を上げた。

「ルーク!今は引こう!!」

「うぜぇんだよ!邪魔をするな!」

手をひこうとしても拒まれ、ルークは再び剣を握り締めて駆けていく。大きな怪我はないようだが、このままでは致命傷を負いかけない。なんとかしなければ。ルークが大きく振り上げた剣を、アッシュが受け止めた。

「邪魔なんだよ!レプリカがっ!」

「うるさいっ!」

力ずくでルークが剣を押し返し、いや。アッシュが剣をいなし、崩れたところでルークに剣を振り下ろす。後ろに飛び退き、剣を薙げば受け止めたアッシュの剣と共に金属音が響いた。きりあげ、斬り下ろし、息もつかぬ怒涛の攻撃が続く。それは美しい演舞のようにも見えるのに、胸が苦しい。

「くっ……同じ技ばかり……」

「てめぇがレプリカだからだろう!」

剣を弾かれ、ルークが尻もちをつく。向けられた剣の切っ先に、ルークはゆるく首を横に振った。

「……う、嘘だ……俺は……」

「俺だって認めたくねぇよ!こんな屑が俺のレプリカなんてな!こんな屑に、俺の家族も居場所も……全部奪われたなんて……」

顔を歪め、アッシュがルークを睨みつける。その言葉がリンネの胸に刺さる。ルークは、何も知らなかった。けれど奪われた側のアッシュにとってそんなことは関係ない。彼にとっては、大切なものを奪われた事実だけが確かなのだから。奪ったものと、奪われたもの。ふいに、彼女の姿が脳裏をよぎった。

「情けなくて反吐がでる!死ね!」

「だめ!」

振りかざされた剣に、リンネは咄嗟に前に出た。じっとしていられなかった。ルークを守りたかった。けれど、アッシュに剣を向けたくはなかった。彼の言葉は、リンネが浴びていたかもしれない言葉だったから。無傷ではいられないと思ったのに、振り下ろされた剣が頭上で止まる。

「邪魔をする気か?」

「あなたの言葉を否定しない。でも、ルークのことも否定してほしくない」

それしか言えない。それが正直な気持ちだ。オリジナルと、レプリカ。それはリンネにとって決して他人事ではない。ルークに傷ついて欲しくないが、アッシュの事情を思うと強く止められない。

「屑は屑同士で傷の舐め合いか?お前もお前だ。何も考えずにヴァンについていくからこうなる」


鼻で笑い、アッシュがリンネを見下ろす。何も答えず口を噤んでいると、アッシュは眉間の皺を深くした。言葉が胸に刺さり、鋭い視線に何も言えない。
 あのとき何もできなかったのは事実だ。あそこにたどり着くまでに時間があったはずなのに、リンネは何もしなかった。できなかった。静かに唇を噛みしめれば、ティアが声を上げた。

「アッシュ、もういいでしょう?ここに来た目的は何?」

 ここで争うことは彼にとってもなんの得にもならない。こうしている間にも地上には何か影響が出ているかもしれない。ヴァンがすでに動き出しているかもしれない。いつまでもここにいるわけにはいかないのはアッシュも同じだろう。彼は舌打ちしながらも剣をおさめた。

「この街の市長に面会したい。孫なら、簡単だろう」

「今の話は、本当……なのですか?」

聞こえたのは、震えるナタリアの声。振り返れば彼女だけではなかった。ガイたちもいつのまにか今の話を聞いていたらしい。誰もが呆然と立ち尽くす中、ナタリアが小さな一歩を踏み出した。

「あのっ!わたくしのこと……覚えていらして?」

アッシュは応えない。その足は迷うことなく、街の方に向かっていった。ナタリアはルークと婚約関係にある。婚約者がもうひとりいたとなっては混乱もするだろう。ナタリアは遠ざかる背中に向かって口を開き、けれど何も言わずに手を握りしめると追うように一歩進み出た。




 ヴァンの裏切り、アクゼリュスの崩落、外殻大地、魔界。そして、レプリカ。頭がどうにかなりそうだ。救えなかった命、守れなかった人、無力な自分、愚かな自分。アッシュの言うことは真理だ。自分で考えようとせず、流されるがままにあそこにいて、何もできなかった。そこに、劣化複写人間。そんなものが、この世界に存在していたとは。まるで自分のことを言われているようだった。複写された人間。劣化した力。奪ったもの。アッシュの言葉が胸に刺さったままとれない。それもそうだ。大切なものを全て奪ったものをそう簡単に許すなんて、

「少し休んだほうがいいんじゃないか?」

思考の沼にガイの声が降り、リンネは顔をあげた。淹れたときには温かかったはずのコーヒーも、今ではカップが指先の熱を奪っていく。ティアの家はとても静かで、怖いくらい静まり返っている。
 イオンを休ませたい、とアニスがイオンを連れて客室に入ったのは覚えている。だが、ジェイドもこのリビングを出たのには気づかなかった。どれほど考え込んでいたのだろう。自分のことに精一杯なんて情けないと、リンネは苦く笑った。

「大丈夫。ちょっと、考えてただけだから」

大丈夫、大丈夫と自分の心に言い聞かせる。まだ動かせる身体があり、前を向く気力がある。まだ、戦える。まだ終わっていない。息を吐きだして、しっかり顔を上げればガイが向かい側に座った。

「そういえば、さっきのあれ……なんだったんだ?背中から白い羽みたいなのが生えただろ」

譜術と魔術、似たようなものがあっても、天使化はこちらの世界にないのだろう。レプリカはあるのに、と複雑な想いで息をこぼし、リンネはコーヒーの入ったカップに視線を落とした。

「天使化っていって、あたしの世界での術の一種……かな。戦闘能力を上げる術なんだよ」

「もしかして、飛べるのか?」

「飛べるよ。ずっと遠くまで……雲の上にだって行けたんだから」

頷いて、そっと目を伏せる。リンネにとって、空を飛ぶことは簡単なことだった。雲を越え、海を越えることもできた。どこへだって行けた。眼の前の人に手を差し伸べることなんて、呼吸することと同じだった、はずなのに。

「悔しいなぁ……」

この手は、届かなかった。羽を出せた感覚はあったが、すぐに霧散し消えていった。残されたのは無力感と、脱力感。あのとき何も掴めなかった手が、憎たらしい。胸の奥が締め付けられるように痛い。眼の前で泥の海に沈みゆく子供一人救えないなんて、悔しくてたまらない。唇をかみしめて、目の奥の熱をぐっと堪える。泣いてはだめだ。今のリンネに泣く資格などないのだから。

「あまり、気に病むなよ」

「あたしは大丈夫だよ。心配かけてごめんね、ガイ」

顔を上げて、いつものように笑う。大丈夫、自分はまだ大丈夫だ。こうして前を向けるのだから。苦い息を飲み込んでコーヒーを口に運ぶ。そうすると少し落ち着いてきた気がして、肩の力が抜けていった。

「俺は何もしてないさ」

それも、こうして話を聞いてくれるガイのおかげでもあるだろう。彼自身も色々と想うところもあるだろうにと、リンネは口元をゆるめた。

「でもこうして傍にいてくれるでしょ?」

面食らったように、優しげな青い瞳が揺らぐ。彼とは違う、彼女とも少し違う。少し深い、青い目。それは故郷に想いを馳せるには十分すぎるほど、懐かしい色合いだった。みんな、今頃何をしているのだろう。元気に過ごしているだろうか。あの青空の下で、笑っているだろうか。

「なんだか、ガイの目を見てるとちょっと安心するね」

「そうか?」

「ガイの目、空の色だから。こんな色の空ばかり見てると、空の色忘れちゃいそうになるでしょ?」

魔界から見えるのは、濁った瘴気の色をした空。青い空は遠く、ここからは見えない。ティアが地上、地殻大地に来たのだから戻る方法は何かあるはずだ。タルタロスのような大きなものを運べるかどうかは疑問だが。

「青空なんて、またすぐ見れるさ」

そうだね、と頷いていたところでティアの部屋が開く音がした。ルークの治療が終わったのだろう。ガイと二人で急ぎティアの部屋に向かう。軽くノックをした後に部屋に入れば、ベッドに横たわるルークがいた。意識はないようだが、顔色はいい。無事だったのだろう。リンネはベッド脇の椅子に腰掛けたティアに声をかけた。

「ルークの様子はどう?」

「怪我は大したことないわ。すぐに目を覚ますでしょう」

ありがとう、と礼を述べれば大したことではないと返された。そっとルークの頬に触れて、その温もりに安堵の息をこぼした。斬りあった際の傷もあるだろうが、精神的な疲労による影響も大きいのだろう。

「無事でよかった……」

「この期に及んで、まだあの屑の心配か?」

こぼした声に返って来たのはルークとよく似た声色。振り返れば侮蔑を含んだ眼差しを向けられ、リンネは内心苦笑しながら口を開いた。

「心配するよ。あたしにとってルークは命の恩人で、大事な仲間だから」

言えば、アッシュは眉間に皺を寄せながら歩み寄るとルークを見下ろした。ルークに何か用事があったのだろうか、と開きかけた口にリンネは違う言葉をかけた。

「あなたのことは、これからなんて呼べばいい?」

今、リンネと言葉を交わしているのも『ルーク』だ。彼が望むのなら、彼のことも『ルーク』と呼ぶべきだろう。だが彼はうなずくことはなく、無言で踵を返した。

「アッシュだ。あの名前は七年前に捨てた」

そう簡単に、名前を捨てられるのだろうか。問いかけた口を静かに閉じる。きっと、リンネはそこに踏み込んではいけない。名前を捨てられるわけがない。全て奪われたと、彼は叫んでいた。名前も、奪われたもののひとつなのだろう。割り切っている、というよりはそう言い聞かせているような気がした。それなら、これ以上言及はできない。

「どこに行くの?」

「市長のところに決まってんだろうが」

「おじいさまには連絡は行っているはずよ。話は自分でつけて」

まるで自分は関係ない、とでも言いたげだ。久々に祖父に会いたくはないのだろか。

「ティアは行かないの?」

声をかけてもティアは動かない。髪で隠れた横顔では表情も伺えない。気丈に振る舞ってはいるが、ティアも辛い立場だ。ティアは、兄であるヴァンが危険なことをしようとしていると気づいていた。それを止めるために地殻大地に来て、兄を止めるためにファブレ邸を襲撃をした。その結果が、これだ。アクゼリュスは崩落し、ヴァンは今も地殻大地で何か行動を起こしている。

「今更、怖気づいたか」

「あなたに何がわかるの?」

アッシュの冷ややかな視線を、ティアが強くにらみつける。

「私は、ここに残るわ。そう決めたの」

低い声のティアに、彼は鼻を鳴らしただけだった。説得する気はないのだろう。彼が無言で部屋を出ていくと、ガイはその背中を睨んだ。

「あたしは、もう少しルークの様子見てから行くよ。ガイはあっちをお願いね」

 迷う素振りを見せたものの、アッシュの行動が気になるのだろう。お願いすれば、ガイは足早にアッシュを追いかけた。残されたのは、重い空気。リンネは鏡台の椅子をベッドの脇に動かし、ティアの隣に腰掛けた。

「ティアも少し休んだら?」

「私はなんともないわ」

「無理しないでね」

といっても、ティアは休むことはないのだろう。人に弱みを見せようとしないのがティアなのだから。まるで傷ついた猫のようだと言ったら、ティアは怒るだろうか。
 頼られない歯がゆさを噛み締めながら、そっかとこぼしてリンネは膝の上で手を組んだ。

「私の心配より、あなたはどうなの?外殻大地に戻るんでしょう」

「そうだね。まだやり残したことがあるから」

「やり残したこと?」

眉を寄せたティアに、リンネは頷いた。取り返しのつかない過ちを犯した。償いきれないほどの罪を犯した。知らないことがあまりにも多すぎる。だからリンネはこれから知らなければならない。知らなかったなんて言い訳にならない。知らなかったことに胡座をかいて、何もしないことのほうが罪なのだから。

「どうしてヴァンがアクゼリュスを崩落させたのか。何が目的で、これから何をするつもりなのか。何を思って、何を成そうとしているのか。それを自分で確かめたいの。あの人が、アクゼリュスの崩落だけを目的にしてたとは思えないから」

アクゼリュスが崩落した今、地殻大地は混乱していることだろう。両国にとって重要な鉱山の街が一つ消えたのだ。キムラスカにとっては王族であるルークとナタリアを。マルクトにとっては大佐であるジェイドと戦艦。教団も導師を失ったとすれば世界情勢は大きく揺らぐ。
 和平を結んだとはいえ、この状況を考えれば戦争がはじまる可能性も高い。アクゼリュスの崩落は真実を知らない両国にとっては、敵国によるものだと判断するだろう。ルークたちが無事であることを知らせるためにも、リンネたちは一刻も早く地殻大地に戻らなければ。強く手を握りしめていると、ティアが小さく笑った。

「確かめたって、どうすることもできないわ」

全ては無駄だとティアの目が物語る。嘲笑的な笑みを口元に浮かべ、足元を睨んだ。

「何を言っても、あの人には届かない。刺し違える覚悟で臨んでも、私の刃は届かない。屋敷で騒ぎを起こしたところで、ルークのお母様を傷つけただけ。あの人の足止めにもならない。何も、変わらないわ」

ティアはティアなりに、ヴァンを止めようとしていた。誰もが慕う兄が、世界に害を成すと知っていたから。誰もティアを信じなくとも、彼女はここまでたった一人で戦ってきた。その全てが報わなかったのなら、膝を折るには十分すぎる理由だ。少しくらい休んだって、バチは当たらないだろう。

「ティアはここまで頑張ってきたからね」

「それは何も出来なかった私への嫌味かしら」

言い方が悪かっただろうか。低くなる声に、言葉は難しいと内心苦笑する。嫌味を言うなんて器用なことはリンネには出来ない。誤解を解かなければと首を横に振った。

「そんなつもりじゃないよ。何もしなかったのと、何も出来なかったのは違う。ティアはティアなりに最善を尽くした。あたしなんかとは違うよ」

リンネは、まだ何もしていない。傍観していただけのリンネと、必死に行動してきたティアは違う。たとえティアの行動がヴァンを止められなかったとしても、それはあくまで現時点の結果でしかない。

「あなたには関係のないことでしょう。あなたに何ができるっていうの?」

「そうだね。あたしには何もない。特別な力も、知恵も、権力も、何もない」

ティアの言う通りだ。今のリンネにはなんの力もない。正直な話、リンネは逃げていたのかもしれないと小さく笑う。この世界ではリンネは天使でも姫神子でもなく、ただのリンネ・アーヴィングでいられたから。なんの力もないかわりに、なんの責任もない。自由でいられた。そう思っていた。

「なら、どうして笑っていられるの?状況がわかっているの?」

「わかってるよ。分からないことばっかりだって」

「何もわかってないじゃない!あなたは兄のことを何も知らないわ!!」

「だから、それをあたしは確かめにいかなくちゃ」

まずは、知ることだ。誰かが語るヴァンではなく、リンネ自身が見たヴァンを知らなければならない。眼の前で起きたことを、その理由を確かめなければならない。アクゼリュス崩落がきっかけで起きたであろう問題を解決しなければならない。進まなければ。うずくまって立ち止まってしまえば、また何も救えない。顔を上げて前を見なければ、未来は守れない。微笑めば、ティアは眉間に皺を寄せたまま頭を振った。

「あなただって、何もできないわ。兄は……おそろしい人なの。世界を滅ぼしてしまうような人なのよ」

「それなら尚更行かなくちゃ。ティアのお兄さんに、世界を滅ぼさせるわけにはいかないもんね」

ティアの声は少しだけ震えていた。大切な人が世界を滅ぼそうとしているなんて、悲しいことだ。止めたいと願うのは当然のことだ。もし自分がティアの立場でも、やはり家族を止めたいと立ち上がるだろう。だが家族だからこそ、刃を向けるには相当な覚悟がいる。

「行ったって、自分の無力さに絶望するだけよ」

「それでも、あたしはまだ生きてる。たくさんの命の上に、あたしは生きてる。その命達に報いたい。償いたい。だから、行かなくちゃいけない」

失われた命は戻らない。アクゼリュスの崩落で沢山の人が命を落とした。世界から、一つの街が消えたのだから。償いきれないことかもしれない。けれど、きっとヴァンの目的は別にある。『次』があるのなら止めなければ。このままで終われるわけがない。リンネはしっかりと顔を上げて、ティアを見つめた。

「だから、あたしは外殻大地に戻るよ」

そう、と呟いたティアは俯いたままだった。その表情に、いつかの少女が重なる。狂気に支配された父と向き合うことを恐れ、逃げだした少女。それでも旅を経て、父と向き合い戦う覚悟をした勇敢で優しい少女。

「……勇気は夢を叶える魔法、だからね」

「なにそれ?」

向けられたのは、怪訝そうな視線。不意に出た言葉だが、言った以上は説明しなければならないだろう。そっと胸元をなでながら、リンネは口を開いた。

「友達が言ってた言葉。ティアに似た女の子が、自分の道を決めた言葉だよ」

彼の言葉がなかったら、彼女は父と向き合うことが出来なかっただろう。あの言葉があったから、支えてくれる人がいたから彼女は前に進めた。勇気は夢を叶える魔法。その素敵な言葉を心の中で繰り返し、リンネは小さく笑った。

「本当は、少し怖いよ。自分じゃ何も出来ないかもしれない。でもこのまま何もしなかったら、あたしはもっと後悔すると思うから」

だがそれは、目の前の少女も同じだろう。何もしなかったら、きっとティアは後悔する。ヴァンが世界を滅ぼしても、誰かがヴァンを討ったとしても。だから信じている。ときには立ち止まることも必要だ。休んだっていい。その気持ちに偽りはない。けれど、今は立ち止まってしまっても、蹲ってしまっても。きっと彼女はまた立ち上がるだろう。リンネは眠るルークの頬を撫でると立ち上がった。

「いってくるね」

そうすることで、彼らが立ち上がったときの力になれたらいい。ここまで何度も二人には助けられてきた。こうすることで少しでも恩返しができればいい。ティア達は、リンネにとって命の恩人なのだから。




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