目の疲れは肩凝りからくると聞いたことがある。もしかしたら逆だったかもしれない。うん、多分逆だ。いや、今はそんなことどうでもいい。どうやら人は疲れが最高潮まで達すると思考のストッパーが外れるようだ。今ので実証された。僕は背もたれに背中を預け、首をぐるりと回した。パキパキッと良い音が職員室に響く。僕以外誰もいない職員室はがらんとしていて、部屋の隅にあるコーヒーメーカーの蒸気音がぷすぷすと笑い声を上げた。胸一杯に空気を吸い込むとインスタントコーヒーの香りが嗅覚を支配し、僕は一時だけ目の前の現実から遠のくことができた。しかし重いまぶたを押し上げるとそこには積み上げられた紙の山。世界史の答案用紙はまるで僕を挑発するかのようにふてぶてしく居座っていた。まだ半分以上も残っている。僕は背筋をしゃんと正し、職務を再開しようとしたその時、
「せんせ」
抑揚のない声が耳に入る。僕は答案用紙を採点しながらそばまで来るであろう人物を待った。窓から射し込む夕日の光糸が視界の端で揺らぐ。摺り足で歩く癖は転入してきた時から変わらず、後味の悪い靴擦れ音が僕の右手を止めさせた。
「…ちゃんとドアの前で学年、名前、用件を言いましたか?」
「言ってないけど?」
「『言ってないけど?』って言わなきゃダメでしょう?エマさん」
僕は一度赤ペンを楕円形にシャッと動かし、顔を上げた。眉を下げ苦笑いを浮かべる。彼女はぴくりとも表情を変えず「ごめん」と機械的に謝った。彼女が毎日着ている僕が数ヶ月前に渡したジャージはくたびれ、既に何十年も着たかのような味を醸し出しており、縦字で「酒池肉林」とでかでかと書かれたティーシャツは、皮肉たっぷりに彼女の今までの人生を嘲笑っているかのようだ。ジャージのポケットに手を突っ込み無表情で僕を見下ろすエマさんの顔から、意志を読み取れなくて僕は迂闊にも口をぽっかり開けたまま制止してしまった。
「先生どしたの」
「はっ…!?あ、いえ…。それはそうと、何か先生に用ですか」
慌てて用件を聞いたが、エマさんは口を閉ざしたままで、暫しの沈黙が流れた。僕は自分の生徒のペースにすっかり呑み込まれ、どうしていいか分からず、とりあえず背もたれに背中を預けた。軋む音が間をつなぎ、コーヒーメーカーの動作音がそれに加担する。
「先生疲れてるね」
「?…はい、まあ」
「僕は最近全然疲れない」
「そうですか」
「何故だと思う?」
遠くから軽い足音が近づいてくる。誰かが職員室に向かってきている。僕がドアの方へ首を伸ばすとエマさんはすかさず僕の名を呼んだ。
「ピョートル先生」
「なんでしょう」
「今からリンダの部屋で勉強会する明日ソーニャと街に遊びに行く明後日はプラットと映画観に行く」
「え」
「ただそれだけ言いに来た。じゃ」
彼女は耐えられなかったのか、それとも自然に溢れてしまったのか、喜びに満ちた愛くるしい微笑みを僕に残し、背を向けた。夕日は彼女を後押しするかのように背中を橙色に照らしていた。
「ピョートル先生どうされましたか」
先ほどの足音の主であった教師が、エマさんと立ち替わり入ってきた。目をまん丸にしている。
「…いえ」
「エマ…でしたっけ?あのジャージの女の子」
「はい」
「相変わらず無表情で…あの不気味な仮面はあまり被らないようになりましたけど…何か深刻な問題とか抱えてるんじゃないですか…例えばイジメとか…」
教師はもごもご口を動かしていたが、余計なお節介と思ったのか取り繕った笑みを浮かべながらそそくさとコーヒーメーカーへ足を向けた。僕は大きく息を吸い込み、安堵するかのようにゆっくりと吐き出し、そっと目を閉じた。目を少しも合わせずろくに口も聞かず、感情を押し殺しいつも仮面を被っていたあの時の彼女はどこへ行ったのか。A組の子たちと触れ合うことで彼女の中で何かが変わったのだろう。それもとてつもなく良い方向に。彼女の微笑みが鮮明にまぶたの裏に再現され、僕は心の奥底から温かな感情が湧き出てくるのを感じた。
「…『じゃ』ではなくて『失礼しました』ですよ。エマさん」
あれだけ重かった体が嘘だったかのように軽くなっている。頬の筋肉が緩み、思わず笑顔がこぼれてしまうほどに。
(オートロック心理) (その刹那を見逃さないで)
----- 生徒大好きピョーちゃん。 お題:アセンソール
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