深いまどろみの中から、ゆっくりと引き戻される感覚。頭の中がわたあめにでもなったみたいにふわふわとぼんやりしている。意識がはっきりしないまま、のろのろとまぶたを開け、何度か瞬きをする。
部屋の中はまだしんとしていて、暗い。まだ夜中のようだ。早く目が覚めてしまったのは寒さのせいだろうか。頬を撫でる部屋の空気の冷たさを感じながら思う。

目を開けてはいても思考はまだ半分眠っているようで、私はしばらくうつぶせの格好のままぼんやりとしていた。
そうしながら、なんだかいつもよりベッドが狭い気がする、と思い、一瞬間をおいてああそうかと気がつく。
シーツに押し付けていた顔を、横に向ける。隣には原田さんが、私に背を向けるようにして眠っていた。豆電球の小さな明かりが、彼の髪を濃いオレンジに染めている。
そうだった。昨日の夜、急に訪ねてきたんだっけ。もう日付も変わる頃だった。
熱いお茶を淹れ、夕食の残りの肉じゃがと大根の味噌汁を温めて出した。

確か、彼の食べ終わった食器を洗っている最中にいきなり後ろから抱えあげられて、ベッドに沈められたのだ。止めるまもなく、半ば無理やりに抱かれて――。水仕事をしていたから私の手はびしょびしょに濡れていて、彼がちょっと眉をしかめていたのを覚えてる。後は、ただただ彼の下で喘いでいた記憶しかない。きっと、そのまま眠ってしまったのだろう。
寝ぼけていたし、布団をかぶっていたから気が付かなかったけれど、着ていたセーターや下着やスカートはめくれあがっていて、ブラジャーのホックは外れている。ショーツは足首に引っかかっていて、私は無性に恥ずかしくなった。
こんな格好では、寒さに目が覚めてしまうのも無理はない。洗い物は結局、途中で放り出してしまったし……。私はほんの少し、ため息をついた。

彼はいつもそうだ。こちらのことなんかまるでお構いなし。来たくなれば連絡も無しに来て、抱きたくなったら抱く。そうして、次にいつ会えるのかも告げずに出て行ってしまうのだ。
強引なひと。

私は原田さんを起こさないように布団の中でこっそりと身なりを整えた。肌に自分の指先が触れると、数時間前に抱かれた彼の熱い手の感触がふいに蘇り、頭の芯を焦がしていく。

結局、そんなひとから離れられないでいるのは、私にとって彼はそれだけ特別な存在であるからなのだろう。
けれど彼の方は、私のことなどきっとさして大事とは思っていないのであろうことは、ちゃんとわかっている。
ろくに顔も見せずに、会ったとしても体を求められるだけ。きっと、ただの都合の良い女と思われてるに違いない。

でも、それでもいい。
いつ姿を現すかわからない人のために化粧をして、部屋を掃除して、いつも食事は少し多めに作って――。時々ひどく虚しくなることはあるけれど、これ以上を望んですべてが壊れてしまうよりは、その選択はずっとましな考えであるような気がしていた。

ああそれにしても、どうしてこんな時間に目を覚ましちゃったんだろう。
私はため息をついた。こんなに暗くて寒くて静かだと、嫌なことばかり考えてしまう。
そっと、視線だけを彼の方に向ける。何度も身体を重ねているのに、こうやってまじまじと見つめるのは何だか妙に気恥ずかしくて、頬がじわりと熱くなっていくのを感じる。
原田さんは私に背を向けている。それが、そのまま私に対する彼の感情を表している気がして、酷く寂しい。
その背に思い切り抱きついてしまいたいと思う。頬をすり寄せて、刺青に口付けたい。 けれど、ただじっと見つめていることしかできない。
私たちは恋人同士じゃない。だから普段は、彼が私を抱くとき以外は、触れることすらためらってしまう。
本当は、すがりついて甘えてみたいのに。好きですと面と向かって言えたら、どんなにいいか……。
ここまで考えたところで、私は切なくてどうしようもなくなってしまった。私は唇を噛みしめると、シーツに顔をうずめた。両目にかすかに浮かんだ涙が、布にじわりと染み込んでいく。もう余計なことを考えるのはやめて、早く眠ってしまおう。
そうは思っても、一度浮かんだ暗い思考はなかなか止まってはくれず、眠気ももうすっかりどこかへ行ってしまった。
ホットミルクでも作ろうかな。そんなことを思った矢先、私の頭にぽん、と軽く何かが触れた。
はじめ、何が起こったのかわからずに、私は声も立てずに息をのんで静かに驚いた。頭の上に乗せられたかすかな重みは、そのままゆるゆると這い回る。

……撫でられてる?

そこまで理解するのに、数十秒かかった。
誰が? いや、ここには私以外には原田さんしかいなくて。でも、まさか。
けれど、頭を撫でるこの感触は、確かに彼の手だ。
私は顔をシーツに押し付けたまま、ぴくりとも動けなくなってしまった。心臓の音が、うるさい。
原田さんは私が起きていることに気付いていないのだろう。こんなに優しく頭を撫でてくれたことなんて、今まで一度もない。そう思うだけで、体の内側から言いあらわせない感情が込み上げてきて、私の頬に熱をともした。
彼の手は、そっと私の髪を梳き始める。私は息をすることさえためらいながら、ひたすらにじっと寝たふりをしていた。
起きていることがばれてしまったら、きっと彼はこの行為を止めてしまう。そんな気がしたのだ。夜、私が眠っている間にこっそりと頭を撫でてくれる――。彼にとって、その行為にさしたる意味はないのかもしれない。けれど、それでも十分に今、気持ちは満たされている。
なんて、暖かで安心感のある手だろう。抱かれている時とはまた違う、甘く穏やかな心地。
もっとずっと感じていたい。
彼が髪を梳く度に、指と髪のこすれる音がする。
それを聴きながら、私は今すぐにでも寝たふりを止めたいという気持ちを懸命にこらえていた。
目を開けたい。あのひとが今、どんな表情をしているのか知りたい。
私も、彼に触れたい。

彼の手が、私の髪から離れる。思わず「あ」と声が出てしまいそうになった。やめないで。ずっとこうしていてください。
今だけは、恋人同士みたいだと錯覚させてください。
そんなことを思っている私の肩に、彼の手が触れる。
私の体は彼の片腕にそっと引き寄せられる。衣擦れの音が聞こえ、彼の息が耳元に吹きかかる。
肌にぞわりとした感覚が走り、肩が大きく跳ね、意思とは裏腹に唇が開く。

「ひゃっ――」

口にした瞬間、しまったと思った。
私の肩を掴んでいた彼の手が強張ったのがわかった。
私も彼も、そのまましばらく動かなかった。衣擦れの音も聞こえない。完璧な静けさ。
耐えきれなくなって、私はおそるおそる顔を上げ、彼を見た。
普段とは違い、ぐしゃぐしゃに乱れた髪。いつもの彼とは違う雰囲気に見惚れそうになったけれど、切れ長の瞳はきびしい色をしていたから、それどころではなかった。

「あ、あの、原田さん」

おずおずと声をかける。彼は眉をしかめながら、私の身体から手を離した。

「いつから起きとった」
「えっと……」

答えを口にする前に、原田さんは荒々しく私に背を向けた。
でもそれはなんていうか拗ねた子供みたいで、怖くない。むしろ、抱きしめたいくらいにいとおしい。
私は、彼の方へそっと手を伸ばした。ためらいながら、シャツにしがみつく。そうして、おずおずと背に顔をうずめる。彼は何も言わない。

「原田さん。私、嬉しかったです……すごく」
「……俺は何もしてへん」

そんなことより早う寝ろ。早口でそういう彼が妙におかしくって、私は思わず笑ってしまった。

「何がおかしいんや」

彼の声は不満そうだ。

「だって。なんだか原田さん、可愛いんですもん」
「……ああ?」

原田さんは面食らったような顔をして、私を見た。
私は笑うのを止めないまま、彼の目を見つめる。
どうしてだろう。普段はとても言えないような言葉が唇からこぼれる。
不思議。今夜は何故だか、心の枷が少しだけ溶けてしまったような気がする。気持ちが、軽い。
彼はため息をつきながら、こちらに身体を向けた。

「……仮にもやくざモンに、“かわええ”はないやろ」
「ふふ、ごめんなさい。でも――」

私の言葉は途中で途切れた。彼の唇が、私の口を塞いだからだ。
タバコの味がする、苦いキス。でも、何故だか心地いい。行為の最中のそれよりもやけに優しく感じたのは、私の気のせいなんだろうか。

「二度とンなこと、言えへんようにしたる」

彼はそう言うと、私の肩を掴み、シーツに押し付けた。そのまま、私の上に跨る。
見上げた彼の顔は微かに笑っている。身体に触れる原田さんの手は、さっき私の頭を撫でていたときのように安心感があったから、私は微笑み返しながら彼の首に腕を回した。




枷の溶ける日
(それは、あともう少しで訪れるのかもしれない)






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