彼女の指が、キャップを外す。

「五度目だ」

俺の声に振りかえった彼女は、すこし充血している目をこちらに向け「なにが?」と首をかしげた。それと同時に、彼女の座る椅子が小さく音を立てる。ここの椅子は古く、彼女がかすかに動くだけでも蚊の泣くような音を出す。
部屋の扉にもたれていた俺は素っ気ないそぶりで彼女の手元を指差した。

「それ、してるのが」
「それ?……ああ」

彼女は手に持ったリップクリームを見て、納得したように頷いた。
小さなそれのデザインは、遠目ではあったが何度も見ているからわかる。白い背景に子供の落描きのようなタッチで、とぼけた顔をしたミツバチがこちらに向かって笑いかけている。

「唇がなんだか最近荒れてて」

何度も使って先が丸くなったそれを目の前に掲げながら、彼女は困ったように笑う。その笑顔がいつもより控え目なのは、唇の端が切れているからなのかもしれない。また、椅子が軋む。

「ていうか、五回も見てたの?」
「あ、いや……」

言葉を濁しながらも、つい俺の目は彼女の先に向いてしまう。メンバーの中では彼女くらいしか使わない鏡台。彼女は俺の目線を辿って、納得したように頷いた。

「私がリップするとこ見たって面白くないでしょ」
「……偶然、覗いていたら見えたんだ」

言いながら、さりげなくそばに近づいてみる。鏡越しに彼女をのぞき込むと、荒れた彼女の唇がはっきりと見えた。乾いた唇の皮が剥げている。痛そうだ。きちんと睡眠をとっているのかだとか考えていると、急に彼女の唇が微かに動いて「ああ、」と溜息を漏らしたから、俺は必要以上に驚いてしまった。

「いいなあ、鏡の中」
「……?」
「一人でゆっくりできるでしょう?」
「ああ、まあ……」

最近、妙に忙しくてゆっくりできないから。そう言って彼女はリップを塗る。唇の左端から、皮の剥げた中心を通り、切れて赤くなった右端まで。何度も塗りたくり、その度に薄桃の唇はやわらかくへこむ。

後ろから鏡越しにその様子を見つめていると、彼女はもう一度「いいな」と吐息混じりに呟いた。

そんなに羨ましいのなら、一度入ってみるか?と、頭の中でだけつぶやく。そんなこと、言えるはずもない。彼女にとってはそんな言葉、本気でもなんでもないのだろう。冗談でもそんなこと、口にしないで欲しいのだが。

「うらやましい」

だが彼女はまた、似たような言葉を口にする。リップがベとりと付いた唇を、指先でなぞりながら。
色の無いリップはそれでも彼女の唇の上で鈍い光を照り返し、存在を強く主張している。

「そんなにか?」
「鏡もだけど、もうひとつ」
「今日はやけに“羨ましがり”なんだな」
「ふふ」

軽く笑った彼女に、鏡越しでもどきりとさせられながら、俺はぶっきらぼうな顔が崩れてしまわないように唇を噛み、一瞬息を止めた。

「イルーゾォの唇がね」言いながら、彼女は鏡越しに俺の口元を指差した「男の人なのにきれい」

いいなあ。と、また繰り返される言葉に、俺は思わずうつむいた。

あんたの唇に触れられないんなら、仮に“きれい”だとしても意味なんてないんだよ。

俺は彼女の背中を見つめる。柔らかそうな髪にふと触れてみたくなり手を伸ばしかけて、だが結局俺の手は彼女の座る椅子の背もたれに行き着いた。
鏡越しに見ていた彼女が不思議そうな声で「どうしたの」と聞く。
その声に顔を上げれば、鏡に映る俺は酷く情けない顔をしていた。

「……俺は、あんたの唇に触れられる誰かの唇のほうがよっぽど羨ましいよ」

掠れた声でそう言った。鏡の中の俺が、苦しげに笑っている。
鏡越しにぬらぬら光る彼女の唇が静かに開こうとしている。きい、と微かに椅子が鳴った。






リップに光る唇で
(君は次に何と言うの)






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