寝惚けた頭で、ああ、あしのうらがひんやりする。と思った。

いつの間にか左足のスリッパが脱げていた。お気に入りの夏草色のスリッパは彼女の足には少しばかり大きすぎる。うまく開かない目でいい加減にあたりを見てみるが、見当たらない。
全身の体重を押し付けるようにもたれかかったソファーの上で、彼女はちいさなあくびをした。あくびの途中で、少しだけはっきりした脳みそが、「おなかがすいた」だとか「あまいものがたべたい」だとか考えて、ひとしきりそんなことをした後、彼女はまた目を閉じる。

今は何時なんだろう。

壁にかかる時計を見ればいいのに、思うばかりで目も開かない。
レースのカーテンの隙間から漏れる日差しが右腕にやわらかくこぼれて暖かい。対照的に、脚を滑り込ませたテーブルの下の床は冷たく、裸足の左足でフローリングの溝をなぞりながら頭の後ろをもやもやと漂う眠気を追い出そうとする。

「寝てんのか」

低い声が耳の奥に滑り込んだ。気のせいかと思って彼女は暫く何の反応も返さないで、それからゆるゆると目蓋を開けた。視線の先には壁があって、そこに掛かる時計の針が思っていたよりも遅い時刻を示している。
横を向くと、曇った視界に癖の強い髪と、苛立ったようにしかめられた眉。

ぎあっちょ。自分の言葉も、おぼつかない響きで唇からこぼれる。目をこすりながら、久しぶり。と言ったが、想像していた以上に掠れた声が出て、彼にちゃんと聞こえたか少しだけ不安になった「鍵の音、全然気付かなかった」

彼はそれには答えず、相変わらずの不機嫌顔で「起きろよ」とぶっきらぼうに言った「腹、減った」

ギアッチョは大抵、彼女に会いに来る理由を、夕飯を食いにだとか、俺の部屋はクーラーの効きが悪いからだとか、妙に遠回しに言う。それは彼なりの照れ隠しだと知っていたから、彼女は少し微笑ましくなって小さく笑う。

「うん……何、食べる?」
「不味くなきゃ、いい」

ソファーから立とうと脚に力を入れて、ああそうだと気が付いた。左足にだけ感じる硬い床の感触。

「スリッパ」
「あ?」
「片方、脱げちゃってて。どこかにない?」
「自分で探せよ」そう言いながらも、軽くあたりを見渡すと、彼はすぐにしゃがみ込んだ。テーブルの下に手を突っ込むと、苛立ったような仕草でスリッパを取り出し、彼女の目の前に掲げて見せる「すぐ下にあるじゃねえかよ」

「ありがとう」

そう言いながら足を差し出すと、ギアッチョは何か言いたげな顔をして、けれど何も言わずに聞こえよがしに舌打ちする。そうしてしゃがみこんだまま彼女の足首を乱暴に掴み、引き寄せた。外は暑かっただろうに、彼のてのひらはやけに冷たい。

彼女は少しだけ照れて、誤魔化すように時計を見、それから彼の顔に視線を戻した。

「……ねえ」そう切り出して、どう言えば彼を苛立たせずに済むか少しばかり考えた。けれど結局何も浮かばずに、思ったことそのままを口にする「唇、どうしたの」

唇の端に、切り傷がある。固まった血が、彼の薄い唇に貼り付いていた。案の定、急に彼は気色ばんで、 口元を見られないようにと下を向いた。掴まれた足首に少しだけ力がこめられている。悪戯がばれて、逆切れしてしまう子供は丁度こんな感じの表情をするのかな。と彼女は思って、それから、やっぱり怒らせてしまったな。とまだ少し眠気の残った頭で反省した。

「またどこかで怪我したの?」
「……うるせえ」

彼が傷をこさえて来るのは珍しいことではない。大怪我ではないにしろ、会うたびに腕や頬に生傷が目立つ。彼はその怪我のことに触れたがらないが、彼女にとっては、彼が外でどんなことをしているのかも(やはり訊くと彼は不機嫌になるものだから)わからないから、せめて頻繁に怪我をする理由だけでも知りたかった。けれど、帰ってくるのはやはりとげとげしい反応だけだ。眠気で感情がゆるくなっているのだろうか。鼻の奥がツンとするのを何とか抑えようと、彼女は唇を噛んだ。

「……ギアッチョ」

なんとか話を逸らそうと、何の考えもなしに口を開いた。眼鏡越しでもすくんでしまうような鋭い眼光がこちらを睨みつけてきて、彼女は慌てて言葉を探す。彼に掴まれたままの足が痛い。履かされようとしているスリッパは、まだ彼の手に掴まれたままで止まっている。

「これ、なんだかシンデレラみたい。だね」

苦し紛れに出てきたのはそんな言葉だった。自分の足首とスリッパを指差して、無理に笑ってみれば、彼は一瞬面食らって、それから眉間の皺を一層深めた。

「……こんなカッコわりいシンデレラがあるか」呆れと苛立ちが混じったような声で吐き捨てると、彼は思いきりこちらにスリッパを投げつけてくる。埃を薄く纏ってしまったそれは、大した痛みもなく胸に当たる「やる気失せた。自分で履け」

「あはは……ごめん」

彼に履かせてもらいたかったな。と少しだけ残念に思って、けれど気付かれないようにつとめて明るく、謝った。
謝ったはいいが、それ以上何も続けられない。口の中で言葉のなりそこないを転がしていると、ふいに彼が口を開いた。

「……口は、歯で噛み切っちまっただけだ」
「……そう」
「あんまり、心配とかすんな」

うっとうしいからよ。そう言って、ギアッチョは自分の唇を指先で弄る。 上唇の端なんて自分で噛み切るのは難しいと思うけどとは、どんなに柔らかく言っても彼は機嫌を損ねるとわかっていたから、彼女はなにも言わずに曖昧に笑った。
なんの仕事をしてるの、だとか、あんまり心配かけないで。だとか、彼に対しては言いたいことはなにも言えずにいる。
そうやって、不機嫌そうな顔をして誤魔化すのは、私に心配かけたくないからだって思ってもいいの?とも。

彼女はしばらく黙って、それからおもむろに彼の癖の強い髪を撫でた。自分のそれとは違う、少しばかり硬い手触りが彼女は結構、好きだ。

「……何だよ」
「機嫌、直してほしくて」
「ガキみたいに扱うなよ」
「じゃあどうしたらいいの」

そう聞けば、彼はフンと鼻を鳴らし立ち上がると、彼女の両肩に手をかけた。背もたれにもたれかかっていた彼女の体が一層強く後ろに押し付けられる。見上げれば、彼は高圧的な表情で薄っすらと笑っている。近付く顔に、ああ、キスをしてくれるんだ。とやけに冷静に思って、それでもやはり彼の唇の傷が気になった。

「沁みない?唇、大丈夫?」

そう言えば、彼はタイミングを乱されてふて腐れながら、「もう乾いてる」と短く答える。


また彼が興醒めて途中で止めてしまわぬように、彼女は胸にスリッパを抱えたまま少し慌てて唇を重ねた。



すりっぱしんでれら








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