「どこへ行っていたんだ」

三週間ぶりに会ったというのに、彼女の顔を見るなりリゾットの口から出たのはそんな言葉だった。

「あ……ごめんなさい、ちょっと買い物に行ってたの」

彼女はそう言いながら、濡れた傘を玄関のドアノブに掛けた。
両方の腕にぶら下げたビニールの買い物袋からは雨粒が垂れ、玄関マットにぱたぱたと落ちている。
彼女は「しまった」と言いたげな顔をしている。おそらく、彼が部屋に来る前に帰ってくるつもりだったのだろう。急いで走ってきたらしく息は上がり、頬はほんのりと桃色に染まっていた。

「夜遅くに外には出るなと何度も言ってるだろう」
「うん。もっと早く帰ってくるつもりだったんだけど……」

彼女は首をすくめ、ごめんなさいと呟いた。
夜遅いとは言うが、実際はまだ夜の八時を過ぎたばかりだ。外は雨で視界は悪いし人通りも少ないが、彼女くらいの歳の女はまだ平気で外を歩いているだろう。
けれど彼女はそんなことは口には出さずに、おとなしく謝る。戸惑ったような、不思議がるような顔をして。
彼女がそんな顔をするのも無理はないだろう。
いつもはむしろ無関心だと感じさせてしまいかねないほど、彼女が何をしようと一切の口出しをしない彼が、夜の一人歩き――天候が悪い日には昼間でも――をする事に関しては異様なほど嫌がっているのだから。
しかもその理由が「事故に遭うかもしれないから」である。
幼い子供に言うのならわかるが、彼女は彼より歳は下であるものの、一応はもう大人と呼ばれていい年齢だ。そんなことで外出を禁じられるのは、あまりに過保護すぎる。
彼自身、滑稽なことだと自覚はしているし、きっと彼女だってこの子供のような扱われ方を快くは思っていないだろう。
だからと言って、どうしようもないのだ。
もしも、万が一にでも彼女に何かあったらと思うと――。
頭の片隅に、まだこびりついている幼い日の記憶。折れ曲がった手足と光を映さない瞳。それがふいに脳裏に蘇り、彼は思わず彼女の体を抱き寄せた。

「ちょ、ちょっと……リゾット」

せめて荷物置かせてよと言う言葉を聞かず、リゾットは彼女の頭を自分の胸に押しつける。
彼女の服は夜風に冷やされてひやりとしている。白い肌。力を入れればすぐに壊れてしまいそうな華奢な体。
腕の中のこの小さくひ弱な女の存在が、こんなにも自分の気持ちを揺らしていることに、彼はいささか戸惑っていた。
弱くなったな、と思う。彼女と出会ってから、弱くなった。
彼女が傷つくことが怖い。
ふと目を離したうちに、二度と手の届かないところへ消えてしまうのではないかと不安になる。
おかしな話だ。仕事柄、死に近いのは明らかにこちらの方なのに。

「すまないな」

彼女の息遣いを胸に感じながら、彼は呟いた。

「お前には、俺のことが滑稽に見えているかもしれないが……」
「……」
「お前が傷つくのが、今の俺には何よりも恐ろしい」

本当は、この言葉の後にこう続けるつもりだった。
“お前がもしもこの感情を窮屈に感じるのなら、早いうちに離れたほうが互いのためかもしれない”
一緒にいることで彼は怖がりになり、彼女はいつ死ぬとも分からない人でなしの男の傍に居続けることになる。
それくらいなら、いっそのこと別れてしまったほうがずっと楽だろう。
けれど、その言葉を紡ぐ前に、彼女が彼の胸に顔をうずめたまま、もごもごと言った。

「なんだか……うれしい」
「……?」

予想しなかった返答に思わずリゾットは怪訝そうに眉をひそめる。
顔を見ずともその反応は伝わったようで、彼女はふふ、と少しだけ笑った。

「……あなたの怖いことが“私が傷つかないかどうか”なんて。なんだか……なんていうか、あなたの気持ち、独り占めしちゃったみたいで」

すごく、うれしい。
服に顔を埋めて喋るから、彼女の声はぼやぼやとぼやけている。
声も吐息も、全て彼の胸元に柔らかな熱を灯す。

「今度から、もっと気をつけるわ。夜、出歩くのは……」
「……ああ」
「でも、今回は許してね。今日は、久しぶりにあなたに会えるから美味しいもの作ろうと思って、いろんなスーパーを回ってたの」
「……そうか」
「えっとねえ……バーニャカウダと、アクアパッツァと、トマトのマリネでしょ。それからラザニアとミネストローネ。デザートにはグラニータも作る」
「ああ……楽しみだ」
「でも」

どさりと、何か重いものが落ちる音がした。
彼女が、買い物袋を床に置いたらしい……と思ったときには、細い腕がきゅっと彼の背中に回されている。

「もうちょっとだけ、こうしてたい」

甘えるように頬を摺り寄せ、彼女はそう言った。
リゾットは彼女の頭を撫でると、よりいっそう強く抱きしめてやる。
先ほどまで彼の不安を煽っていた外の雨音が、今はおだやかに鼓膜を叩いていた。




こわがりのひとりじめ






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