目を覚ますと頬が濡れていた。
真っ暗な部屋の中央にぽつんと灯る豆電球の灯りが、まつ毛に付いた涙に乱反射してひどく眩しい。

また、彼の死ぬ夢を見た。

一体何回目だろう。思いながら、ななしは震える目蓋をゆっくりと閉じた。目の端から生ぬるい雫がこぼれて、こめかみを伝って枕にじんわりと染み込んでいく。
5回を超えてからは、もう数えるのを止めてしまった。
細かい内容はいつも思い出せないが、“彼が死んだ”ということだけはしっかりと脳裏にこびりついていて、体はおそろしさに震えている。心臓はうるさく脈を打って、眠っていただけだというのに少し息切れをしていた。

ゆきおさん、目を閉じたまま呼びかけてみる。応える声はない。真夜中の四畳半の部屋に自分の呼吸と、蛇口が水漏れしてシンクにぽたりぽたりと垂れる音だけがやけにうるさく響いている。
彼女は隣に敷かれた布団に手を伸ばした。敷布団と掛布団の間に手を差し込んでみるが、普段彼の眠っている場所は今は夜の空気を吸い込んでひやりと冷たい。さみしい温度にまた涙があふれた。

近頃彼は夜になるとどこかへ出掛けていくことが多くなった。今日もそうだ。心細さに胸が潰れるような感覚に襲われて、ななしは薄手の寝間着の左胸の辺りを強く握りしめた。
やけに喉が渇いている。

彼女は起き上がり、頬もぬぐわないままですぐそばのキッチンにもたれるように飛びつきシンク上の小さな食器棚から湯飲みを取り出すと蛇口を乱暴に捻った。勢いよく溢れ出た水が跳ね、顔や寝間着を濡らす。それでも彼女はうつろな顔のままで水を汲み、一口啜った。

と同時に、背後のドアの鍵穴がかちゃ、と鳴った。
それが鼓膜に届いた途端、彼女は湯飲みを投げ出し玄関に駆け寄った。
水がまだ半分近く残っている湯飲みを放ってその後どうなるかなど、今の彼女にとってはどうだってよかった。

おそらく音を立ててななしを起こすことのないようにとの配慮なのだろう。そろそろと開けられた玄関扉から顔を覗かせたのは、共に暮らしている平山だった。
彼は外から差し込む月明かりにうすぼんやりと照らされ立ち尽くす彼女にぎょっとしたようにのけぞり、それから肩を竦めて部屋の灯りを点けた。
靴を脱ぎ部屋に上がると、まずキッチンに向かい開きっぱなしだった蛇口を絞める。
それからななしの布団の上に転がっていた湯飲みを拾い上げ、ぐっしょりと濡れた薄い掛け布団にタオルを被せた。冷静に対処する彼の背を見ていると彼女も幾分か冷静になって、やってしまった、と青ざめた。

「また見たのか」

じっと立ち尽くし何をすることもできずただただそれを眺めているななしを見上げ、怒るでもなく彼は言った。子供のようにうんうんと何度も頷き、彼女は布団の上に頽れる。

「ごめんなさい」
「ん?」
「お布団……」
「ああ……。いいから、こっち来いよ」

平山はその場に座り込み、手招きをした。ななしはそろそろと躊躇いがちに彼の側に来て、猫のように背を丸めて小さくなる。
その小さな背に平山の腕がゆっくりと回され、抱き寄せられた。彼の胸に耳を寄せてみる。心音も、体温も、先ほどふかしてきたばかりなのだろう煙草の匂いも、彼の生きている証拠が、彼女をようやく少し安心させた。
深いため息が零れる。ひどく力なく情けない響きをしていた。

「お前の布団、眠れる状況じゃねえから……。今日は一緒に寝るか」
「……はい」

消え入りそうな声で応えるななしの頭を彼はそっと撫でてくれる。悪い夢で目覚めた彼女が真夜中に出迎えるのにも、もう慣れた様子だ。
初めの頃は夢ぐらいで怯えるその姿を見て呆れていたが、それが連日続くものだから近頃は流石に真剣に心配しているらしい。

「眠れそうか? まだ朝まで時間あるぞ」
「はい」

とは言ったものの、未だ心臓の鼓動は落ち着いていないし、あの夢の気持ちの悪さはまだ脳裏から離れてくれない。だが彼だって何か用を済ませて帰ってきて、今から眠るところだ。何日も自分を宥めることに付き合わせて、睡眠時間を削ってしまうのは本意ではなかった。だから彼女は精一杯平気な顔をして返事をしたつもりだったが、それを見た彼の表情は芳しくなかったので、自分の“大丈夫なふり”は失敗に終わったのだと悟った。

「――ああ、そうだ」

平山は上着のポケットを探ると、彼女の手に銀紙に包まれた小さな飴を2つ乗せた。

「煙草屋で買ってきた。好きだったろ、これ」
「……いいんですか?」

蛍光灯に照らされてチープに輝くそれを見つめ、彼女は困惑したように訊いた。夜中に甘いものは駄目だと普段は母親みたいなことを言われているのだ。

「今日は特別だ」

そう言って彼は彼女の手から一粒を摘まみ上げ、包みを開いてコーヒー味のキャンディを涙で湿った唇の中へ放った。
口腔に、甘さと微かな苦みがじわじわ広がっていく。それに呼応するように胸の奥から安心や不安がないまぜになったものがせりあがってくる感覚があり、ななしの顔は歪んで右目から涙がほろりと零れた。彼が慌ててハンカチを取り出し彼女の目にそっと押し当てた。以前彼女が贈った藍色のそれは随分使い込まれているらしく涙をよく吸い込んで、少し煙草の匂いがした。
弱ったな。俯いた頭の上に、彼の困ったような声が降ってくる。

「毎晩のようにこれだと辛いだろ。どうしてそんな――俺の死ぬ夢ばかり見るんだろうな」
「……」

本当は、解決法はわかっている。
平山が居れば、あんな夢は見ないのだ。彼が夜に出歩くようになってから、決まって彼女はあの夢を見るようになった。
だが、言えずにいる。夜中に出て行くことを咎めるのはいやだったし、理由が平山にあると知れば戸惑い悲しむのは容易に想像がつくからだ。彼女のせいで彼のやりたいことを制限させたくはなかった。
そもそもの根本的な原因は、おそらく以前知った迷信。

「神様に」
「?」
「何かの本で読んだんです。神様に愛されると長生きができないって」
「……ああ、聞いたことある」
「心配です。幸雄さんは、頭もよろしいし優しくて素敵な方だから」
「俺が早死にするって?」

死、という言葉に彼女は身震いした。

「……心配なんです」

自分のような人間にはとても釣り合わないような男だと、常々思っていた。そのことを考える度、嬉しい反面、ひどくこわくなる。失うのがこわい。いつか彼が自分から離れていく日が来るのではないかと、時折不安になってしまう。そんな気持ちが哀しい夢を見せてしまう。いつもは子供じみていて世間知らずなところもある彼女だが、一生共にいられると疑いなく思えるほど夢見がちな女でもなかった。

「馬鹿だな。そんなの迷信だ」

彼の手が子をあやすように彼女の背を撫でている。ゆっくりと息をしているうちに、涙も次第に落ち着いてくる。布団の皺を見つめながら静かにじっとしていると、頭の上でかさかさと音がすることに気付いた。

「……?」

何をしているのだろうかと顔を上げれば、額にぺたりと薄い紙きれのようなものが押し当てられた。
怪訝な顔で見てみれば、それは銀紙で作った折り紙だった。少しよれたそれは、猫の形をしている。

「片手で折ったから不格好になっちまったけど」

彼は笑って、彼女の顔を覗き込んだ。

「他のも折ってやろうか」

ななしは応えずに、じっと猫を見つめた。くしゃくしゃの銀の猫は、鼻先を近付ければ安っぽい珈琲の香りがする。

「近頃天気悪い日が続くから、気も沈むのかもしれねえな。てるてる坊主でも吊るすか。お前、ああいうの作るの好きだろ」

彼女はたまらず体を丸めて平山の胸に飛び込んだ。わ、と少し狼狽したような彼の声が聞こえ、それから遠慮がちに身体が抱き寄せられる。

素敵なひとだ。と思う。
この人が素敵な方だってことは、神様には内緒にしなければならない。
あなたにとっての私は、数多くあるであろう楽しいことや素晴らしいことの中のほんのささいなひとつなのかもしれないけれど、私にとっては全てなのだから。

ななしはもう一粒キャンディーを頬張り、包みを手渡した。彼がほっとしたように微笑んだ。

「何を作ってほしい?」
「猫を……もう一匹」

つがいが居ないと、きっとさみしいでしょうから。
平山は頷いて、二匹目の猫を折り始めた。
彼女は彼の腕に寄りかかって、甘えるように体重をかけてみる。

「重いだろ、折れねえよ」と彼は笑ったが、振りほどくことはしなかった。



神様にだけは内緒にしてね







人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -