今思うと皆薄々、ななしがいずれイカレちまうってことをわかっていたんじゃあないか。

初めてチームにあいつが入ってきた時、何でこんな女が、というのが正直な印象だった。
毎日櫛で梳いているのだろう艶やかな髪、長いまつ毛。爪には丁寧にマニキュアが塗られ、長いスカートを翻し歩く姿はそこら辺にいる女と何ら変わりはなく見えた。くるりと上がったまつ毛が縁取るアーモンド形の目、ほんの少し不安に翳った栗色の瞳は、こんな世界にはあまりに似付かわしくない。
そんな何も知らなそうな淑女みたいな彼女は一たび仕事をさせてみれば驚くほどの冷静さと正確さで相手を殺した。本当に使い物になるのか内心疑ってかかっていた俺は素直に感心したし、称賛の言葉の一つでもかけてやった覚えがある。
その時の彼女の、俺の目をちらとも見ずただどこともわからないところを遠く見つめてぎこちなく微笑んだ顔。あれにちょっとでも引っかかっていれば、今のこの状態はなかったのかもしれない。

「メローネ、おかえり」
「ただいま。良い子にしてたかい?」
「うん。昨日買ってもらったやつ、読んでたよ」

ななしはこちらの方に腕をいっぱいに伸ばし一冊の絵本を掲げてみせた。殺風景なアジトの一室には、可愛らしくデフォルメされた二足歩行の動物たちが戯れているカラフルでがちゃがちゃとした表紙は笑えるほどアンバランスだ。
それから彼女は膝に本を乗せ、ページを捲る。遠目から見ても眩しいほど色鮮やかでメルヘンな絵がぱらぱらと躍っていた。

「あのね、よくわからない言葉があったから、おしえてほしいの」
「ああ。でも夕飯食べてからな」
「わかった」彼女は素直に頷くと、腹を両手で抑えて「おなかすいた」と笑った。
「お腹空いたか。早くできるのが良いかな。フリッタータ(オムレツ)でいいかい?」
「何を入れるの?」
「具材? ン……何があったかな。トマトとホウレンソウとチーズと……ベーコンも余ってたから入れようか」
「ベーコン大好き!」

本をソファーに置き、彼女は飛び跳ねるように立ち上がった。

「お手伝いする」
「ななしは良い子だな」

ばたばたこちらに駆け寄ってきたななしの頭を撫でてやると、へへ、と笑って彼女は手足をばたつかせる。仕草は明らかに子供のそれだというのに、その見た目は立派に大人の女だ。

仕事をこなすたびに彼女は少しずつおかしくなっていった。元々乏しかった表情の変化がまるでなくなり、食事をろくに取らなくなった。そのくせ殺しの後はトイレに駆け込み胃液をゲエゲエ吐いた。
元々口数の少ない女だったが、口を動かすことさえ億劫になってきたのかほとんど声を聞くことはなくなった。やせ細り髪に櫛を通すことさえしなくなり、傷んだ髪は絡まり酷いありさまだった。爪にまで気を配る余裕も当然ながら無くなり、リムーバーを塗ったわけではなく自然に剥がれていったボルドーのマニキュアは、左手の親指の爪にほんの少しだけしぶとく残り、見ていて実に哀れだった。
それでも素顔を見せるのは嫌がって化粧は何とか施していたが、日を追うにつれチークを塗らなくなり、アイメイクがなくなり、唇も素の色になり、いつしか何もできなくなった。
メイクをしない彼女は、案外子どもっぽい顔をしている。そんなことを思っていたらある日本当に精神が子どもになってしまったのだから全く笑えない話だ。
仕事から戻りいつもの通り吐いた後、仮眠室に籠ったななしが中々出てこないものだから起こしに行ったら、目を覚ました彼女は俺の顔を見るなりベッドから飛びのき、俺たちのことも仕事のこともまるで忘れた様子で自分の置かれた状態が全く分からず部屋の隅で怯え震えていた。
医者の見立てによれば3、4歳程度まで戻っているという。過度のストレスが原因で、自分の精神を守るために幼児退行した、と。
言動も思考もだが、今まで出来ていた何気ない動作も――例えばシャツのボタンを留めるのも覚束なくなり、ヒールの高い靴も履けなくなった。言葉も舌っ足らずで、俺の名前の発音もちょっと危うい。

完全に壊れたななしを見ても、他の奴らはさほど驚きもしなかった。任務には使い物にならなくなったが、このまま見捨てたところでこんな仕事をしていた彼女だ、頼れる人間もいないだろう。仲良しごっこをするようなタチの人間の集まりではなかったが、一度仲間になった奴を見放すほど冷血ってわけでもなかった。
そういうわけで、誰が言いだすわけでもなく、彼女はここで世話をするという流れに自然となった。

ろくでもない連中の中で俺が一番とっつきやすく見えたか、子どもに戻った彼女が最初に心を開いたのは俺だった。どこに行こうと生まれたての雛みたいに後ろを付いてくるもんだから、必然的に俺が面倒を見なければならなくなった。
とりあえず一番初めに俺がななしにしたことは、親指の爪にこびりついたマニキュアを落としてやることだった。

子どもに戻った彼女は、打ち解けた相手に対しては実におしゃべりなやつになった。頭のてっぺんからつま先まで、とにかく全身を動かさずにはいられないというように落ち着きがなく、食欲も旺盛で何でも喜んで食べた。とはいえ初めのころは元々吐きすぎて胃酸で歯がぼろぼろになっていたし(歯科医のところに連れて行くのに相当骨を折った)ほとんど何も食っていない状態だったから胃が固形物を受け付けず、食い気はあるというのに少量の粥やスープしか食えずにいたが。

俺が材料を切る横でななしはボウルに割り入れた卵をかっちゃかちゃと歪なリズムで混ぜている。ナイフも今の彼女には難しいので、とてもまかせる気にはならない。

精神退行する前、まだ飯もそこそこ食えていた頃は、彼女も度々キッチンに立つことがあった。気晴らしになるから料理自体は好きらしく簡単な家庭料理から手のかかるものまで器用に作っていた。作るだけ作って、自分が食べるのはほんの数口で、あとは俺らに全部食わせていた。
食い物の匂いを嗅ぐと吐き気を催すようになってからは、そういったこともなくなったが。

未だに度々、彼女の料理が食いたくなることがある。

「どうしたの。メローネ」
「え?」
「ヘン」
「変?」

ななしは大きく頷いて、言葉を探すように上を向いてええっとと呟いている。よそ見してかき混ぜられたボウルの中身が零れそうで危なっかしい。

「さみしそう」
「淋しいって? 俺が?」

予想していなかった言葉に笑ってしまった。彼女は大まじめに頷いている。俺はボウルのふちから垂れてきた卵液を指で拭った。

「ななしは淋しくはないのかい?」
「さみしくないよ」

即答ときた。
少し意外な顔をしてしまったことを察したのか、彼女は懸命に、いかに今の自分が満たされているか伝えようとする。
だってね、メローネのつくるごはんおいしいもん。かわいいお洋服くれるし、寝る前に本読んでくれるもん。しあわせ。

「へえ……そう」
「メローネの“おともだち”もすき」
「あんなに怖がってたのに?」
「もう怖くないよ!」

チームのメンバーのことを、ななしは俺の“おともだち”と認識している。俺が出払っているときは彼女の世話は他の奴らに任せることもあった。初めは俺がいないとなるとギャン泣きして手が付けられなかったようだが、近頃は慣れてきて手を煩わせることもなく、カートゥーンや絵本を見せておけば一人でも1,2時間程度であれば大人しく過ごすことができるようになった。

「さっきまでギアッチョがいてくれたの」
「そうなの?」
「うん。テレビゲームしたの。いっしょに」
「ゲームぅ? マジかい?」

誰よりもこの大きな子供の扱いに戸惑って、彼女の傍には頑なに寄り付かずにいたくせに、まさか自主的に遊びに付き合ってやっているとは思わなかった。しかめっ面で相手している顔を想像して、少し吹きだした。

「なあ、ななし」

俺がベーコンを切るそばからひょいと手を伸ばしてつまみ食いをしていた彼女は顔を上げ、口をもごもごさせながら俺を見た。フライパンを火にかけて、後ろの冷蔵庫からガラス製のバターケースを取り出す。

「行くのやめようか」
「? どこに?」
「病院」
「……ほんとうに?」

歯の治療は既に終わっていたが、相変わらず精神科には通わせていた。ななしはあそこが嫌いだった。当然と言えば当然だ。“まともに戻る”ということは、今の彼女ではなくなるということなのだから。

どちらが正しい選択なのかずっと決めかねていた。
彼女がこうなってしまった当初は、元に戻すことが当然だと考えていた。だから知らない大人に囲まれあれこれ質問をされることを怖がり嫌がる彼女を宥めすかして無理矢理医者に連れて行った。歯医者で口の中を弄られるよりも駄目らしく、終わった後のご褒美のケーキは3つは買ってやらないと機嫌を直してはくれなかった。
確かに外に出れば見た目は立派に大人の女だというのに些細な仕草が明らかに子供のそれであるアンバランスな姿に奇異な視線が投げかけられることもある。
気に入っていたのか頻繁に身に着けていた艶々とした黒いパンプスは、高いヒールではバランスが取れず履かれなくなり暗いシューズボックスの中で埃を被っている。

だが、元に戻ればまた人を殺す日々が始まるだろう。彼女の笑顔はまた影をひそめる。瞬きをすることすら億劫そうにして、食欲はなく何も食べないのに毎晩吐いてぼろぼろの女に戻ってしまう。艶のない、櫛も通さずぼさぼさの髪の隙間から生気のない瞳で俺を見ていた、その頃の彼女に戻ることが幸せなのか。

切った材料を卵を割り入れたボウルに入れ、泡だて器とともにななしに渡した。彼女は受け取ったそれをおぼつかない手付きでかき混ぜながら、戸惑った顔をしている。手放しに喜ぶものだと思っていたが、そう単純なわけでもないらしい。
バターケースの中で、淡い黄色をした塊がかすかに汗をかき始めている。

「ほんとに……ほんとに行かなくていいの?」

あれほど強引に連れていかれた場所に急に行かなくていいと言い出すことが理解できないのだろう。

「あんたが行きたくないのなら」

バターをひとかけ、フライパンに落とした。すぐさま溶けだしたそれはふつふつと泡立って、部屋中にふくよかな香りを広げていく。けれど彼女の表情は浮かない。

「じゃあ……。行きたく、ない」
「うん。いいよ」

ななしの手からボウルを取って、フライパンに卵液を流し込んだ。黄と赤と緑の鮮やかな彩りが、ふちからじわりと固まっていく。彼女は横からフライパンを覗き込み、焼けていく卵を見つめている。

「メローネ」
「ん?」
「キス、してもいい?」
「……ああ、いいよ」

たびたび彼女は親が子供にするような、触れるだけの優しいキスをねだった。外見はどうやったって大人の女だから、舌突っ込んで思う存分口腔を荒らしてやりたい衝動を抑えるのには毎度苦労する。
とはいえ、今の“この子”にはそんなことできるわけがない。
目を閉じ、顔を差し出して大人しく待っている彼女の上唇の辺りに一瞬だけキスをした。
顔を離したとたんに彼女の目がぱっと見開かれる。栗色の瞳がろくに掃除もされてない埃をかぶった電球の光を映しこんで、これでもかときらきら輝いている。
親愛のキスをした彼女の表情には、恥じらいの色はない。ただただ嬉しそうな顔をして、横から抱き着いてくる。

「はは、重いよ。危ないぜ」

んふふと笑って、それでも彼女はお構いなしに自分の身体を摺り寄せてくる。

「メローネ、だいすき」
「うん。俺も好きだよ」

互いの口にした同じ台詞の意味に相違があるなど、絵本に出てくる簡単な言葉もあやふやな彼女にはわからないだろう。
彼女の方へ向き直り身体をやわく抱きしめた。きちんとシャンプーをしてよく乾かして丁寧に梳かされた髪に鼻先を埋めてみる。目を閉じると、黒いパンプスを履いて穏やかに微笑むななしの姿が浮かんだ。そんな笑顔、一度も見たことなどないが――俺はまだ、元の彼女に未練があるのかもしれない。

「メローネ、焦げてるにおいがするよ!」

ななしが体を捩りながら笑って俺の腕を叩いた。元気の塊みたいな今の彼女と、以前の彼女の陰鬱とした、それでもなんとか平気そうに見せようと無理をしている笑顔とのあまりの差に眩暈がしそうだ。

「好きなようにしていいよ。あんたのやりたいように。誰が何と言おうと、俺が許してあげるよ」
「?」

俺の腕の中で、ななしは顔いっぱいに疑問符を浮かべている。
焦げた卵の匂いがバターの香りを掻き消している。きっとどうやったって俺は以前彼女が作っていたフリッタータとこの失敗作を比べてしまうのだろう。



灰とダイヤモンド
(しあわせになるのは存外、簡単だ。俺がさみしさを全部まるきり忘れて平気なふりを続けていればいいのだから)







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