同僚たちの噂話で耳にした通り、その店のガレットは絶品だった。香ばしい生地に包まれたチーズにキノコにハムの相性は抜群で、上に乗った半熟卵の濃厚なこと。食べれば昼間に職場でしでかした失敗も、この街に越してから中々親しい友人が出来ないことも、暫し忘れられた。
ゆっくりとガレットを食べ終え、レモンの輪切りの浮いた炭酸水を一口飲み、彼女は空になった皿をじっと見つめた。
おいしかった。
けれど、もうちょっと何か食べたい。
どうしよう。あと一品頼もうか。
ポトフなんかいいかもしれない。さっきメニューを見た時も、頼もうかどうか迷ったのだ。けれど写真を見る限り随分と具沢山で、今の状態で全部食べれるか少し不安だった。あの量の半分くらいであればちょうどいいのだけれど。
ああ。友人や恋人の一人でもいれば、仲良く半分わけあうこともできるんだろうか。カウンターの端っこで寂しく夕飯なんか食べずに、楽しくお喋りなんかして……。
ガレットの力は早くも解けて、心を暗いもやが覆う。
彼女は意地汚くもフォークの背で空いた皿をぐるぐるなぞる。粉パセリの混ざった卵の黄身が皿中に広がっていく。

「なあ、これ半分食わねえかい?」

横から聞こえてきたその声が、初め自分に投げかけられたものだと思わず彼女は皿をフォークでかちんかちんと行儀悪く鳴らし続けていた。
なあ。もう一度呼びかけられてはっとして隣を見れば、男がこちらをじっと見つめている。

「……え?」

見知らぬ男から親しげに話しかけられることなんて初めてで、思わず片側の壁に身を寄せた。
シルバーブロンドの髪はまるで柱みたいに垂直に逆立てられていて、まずそれに釘付けになった。ハートマークを半分で切ったような、ユニークな形をしたピアスが揺れて、薄暗い店の明かりにチラチラ光っていた。

「な、何でしょう?」

フォークを置きスカートを握り締めおずおずと訊けば、男はそんな彼女を見て困ったように頬を掻き笑った。

「あー、悪い。急に話しかけて。とって食おうってわけじゃねーんだ。そんなに怯えんなよ」

野太い声は、けれど思っていたよりもずっと優しい響きをしていて、彼女は肩の力を少しだけ抜いた。
随分とでかい図体をしているものだから勝手に怖がっていたが、よく見りゃ笑顔も人懐っこい。それに幾分か安心して、彼女は遠慮がちに微笑んだ。

「私こそごめんなさい。それで、私に何か……?」
「ああ、これを……」

男はそう言って、彼女の前に皿を差し出した。
荒く切った人参に、じゃが芋、玉葱、肉厚のベーコン、ブロッコリーが澄んだ琥珀色のスープの中で湯気を立てている。

「……ポトフ?」
「ああ。これ、半分食ってくれねえか?」
「え?」
「食いモン頼みすぎて、ちょっと食いきれそうにないんだ」

鮮やかな人参に目を奪われていた彼女は顔を上げ、間抜けな顔で男を見つめた。
彼の前には、空の皿がうず高く積まれている。ガレットを食べていた時から、実は少し気になっていたのだ。ラタトゥイユ、カナッペ、ローストビーフにエビのグラタン、それにポトフ。いくらなんでもちょっと多すぎなんじゃないかと思っていた。

そりゃ、こんなこといきなり言ったら困るよな。彼はそう言って明るく笑った。

「嫌なら無理にとは言わねえよ。残して、店の奴にちょいと睨まれるだけだ」
「そ、そんな。残すくらいなら……いただきます」



店員に取り皿を貰い、彼女は半分に分けたポトフを食べた。
ベーコンの旨味が溶け込んだスープをたっぷりと吸い込んだじゃが芋が口の中でほろほろに崩れていく。透き通った玉葱が甘い。人参とブロッコリーの色合いが食欲をそそる。
夢中になって食べている彼女を、彼は頬杖を付いて眺めていた。
視線に気が付いて、彼女はスプーンをくわえたまま困惑したように俯いた。こうもじっと見つめられると、どうにも食べにくい。

「旨そうに食うな」
「え、ええ。とっても美味しいですから」
「この店は初めてかい?」
「はい。仕事の関係で最近この近くに越してきたばかりなんです。行きつけのお店を探したくて、この辺りを色々探索していて」
「ここはアンタのお眼鏡にかなったかい?」
「騒がしくないし、落ち着けていい店だと思いますよ。お料理も美味しい」
「こんな色男もいるしな」
「あら……」

彼女は小さく笑った。初めに怖がったのを申し訳なく思ってしまうほど、彼はユーモアのあって楽しい男だった。

「なあ、あんたさえよかったら……」

自分の分のポトフの皿を見つめ、彼は少し声のトーンを落とした。

「たまにここで夕飯食わねえか? こうやって、半分ずつわけたりしてよ……」
「え?」
「今までは、妹と食ってたんだ」
「妹さんと」

呟いて、彼女は彼をまじまじと見る。彼の妹。どんな人なのだろう。全然想像がつかない。
髪の毛は、彼と同じ美しいシルバーブロンドなのだろうか。目の色は海の色で……。

「ああ。あいつ、食べたいものがありすぎて、一つに絞れないからっつっていつも何品も頼んで食いきれなかった分を俺に食わせてた」
「へえ……」
「すっかりそれに慣れちまってたからさ、妹が居なくなったってのについこんなに頼んじまって……」

いやに明るく笑って積まれた皿を見た。けれどそこから確かに悲しみを感じ取って、彼女はうまく笑い返すことが出来ずスプーンの上の人参を口に放った。

「その、居なくなったって……?」
「遠くに行っちまった。スゲー遠い所に」

私のように、中々会いに行けないところへお仕事へ行っちゃったのかしら。それともお嫁に?
興味も疑問もどんどん湧いてくるけれど、彼の表情を見るにあまり触れてほしくはない話題だったようで、海の色をした瞳は彼女の知らない感情を滲ませている。

「それで、私に妹さんの代わりを?」
「ああ」
「どうして私に?」
「あんた、さっきメニュー見ながらどれ食べようか随分迷ってただろ」
「ええ……」
「ガレット食べた後もまだ食いたそうにしてた。なんだか妹を思い出したんだ」

そこまで見られていたなんて。彼女は少し頬を赤くさせた。
「それに」彼はスプーンでじゃが芋を潰しながら続けた。

「一人でつまらなそうに食ってたろ」
「……」
「俺も一人じゃ物足りねえんだ。旨いモンは誰かと食うべきだ。そうだろ?」
「……そうですね」

彼女はスプーンを置き、小さく鼻を啜った。この街に来てから、思えば今まで誰とも食事をしたことがなかった。たったそれだけのことだが、随分思いつめていたような気がする。

「誰かと一緒にいろんなものを食べるっていうのは、いいかも」
「決まりだな」

彼はにっと子供っぽく笑って、手を差し出した。
彼女は躊躇いがちに、けれどしっかりと、この街で出来た初めての友人の大きな手を握り返した。







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