とりあえず、俺の作であるそのスープは中々の出来だった。
別段料理は不得意ではなかったし、大抵のものはリストランテで出すには烏滸がましいだろうが日常で口にするには十分なものを作るくらいはできる。
この料理にしても問題点を挙げるならば手書きのレシピの分量が一人には多すぎるくらいで、それだって大したことではない気がしていた。


だがそれは本当にそんな気がしていただけで、深めの皿にたっぷりとついだそれをスプーンで掬い、一口啜った所で完全に次の動きは停止していた。不味くはない、不味くはないんだが。
完璧に行き場を失った俺の手は結局スプーンをテーブルに置くことで落ち着いた。

手書きのレシピのあの小さな文字を思い出す。何にも間違っちゃあいないはずだ。だが舌にいつまでも残るこの味は実に不愉快だった。
水でも飲もうと立ち上がり、冷蔵庫の前に立てばカラフルな磁石で貼り付けてある小さなメモが視界に入る。彼女の文字で書かれたスープのレシピ。





別れの理由なんて曖昧なもので、最後まで俺はそのわけを知らされることはなかった(第一、理由を聞いたところでどうにもならないのなら別に知る必要もない気がしたから、訊きたいとも思わなかった)気が付けば部屋がやけに片付いていて、その代わり膨れたバッグを重たげに抱える彼女の姿があった。それだけ。
結局残ったのは手書きのレシピとそれを止める磁石の二つで、後はCDから歯ブラシに至るまでごっそりとバッグに詰め、早口に「さよなら」と呟きあいつはドアを閉めた。

一緒に暮らしていたわけではなかったから、彼女が離れても少し時間に空きができるだけで大して代わりもないものだと思っていたし実際別れの翌日もいつものように過ごしたのだけれど、部屋だけは想像以上に彼女のもので埋め尽くされていたらしい。
改めて部屋を見てみれば笑えるくらいにすかすかだった(何が減ったのか。なんてのは殆どわからなかったが)
いつの間に彼女の存在がこんなにも室内に浸蝕していたんだか。


おそらくは、このメモと磁石は彼女に忘れられた存在なんだろう。俺もこいつらのことに気付いたのは彼女が(正確に言えば彼女の荷物達が)出て行って3日後のことだった。


冷蔵庫から冷えたボトルを取り出し、投げやりにドアを閉める。ついでにレシピの紙切れも掴むと、椅子に座り直した。
ボトルに口を付けミネラルウォーターを流し込むと、洗い流された舌先がますますあの味を欲しがり出した。

彼女が居ないことを寂しいと思うほど俺はガキじゃない。スープ皿の中で湯気をたてるトマト色のそれを見つめながらそんなことを思う。ただ、あいつのスープを二度と食えなくなるのは惜しかった。

元々料理は不得意なやつだった。俺と会うまで何ひとつまともに作ったことがなかったらしく、不器用で、包丁の握り方さえ危なっかしかった。だからこそ余計に、何度目かの挑戦で出来たあのスープの予想以上の出来に、あいつは飛び上がるほど喜んだんだろう。

とは言っても、成功はその一品だけであとはどうしようと不味いまま。必然的にそのスープは必ずと言っていいほどテーブルに並ぶようになる。
一般的に言えばさほど大した旨さでもなかったろうが、彼女があんまりにもしつこく作ってくれるものだから、俺の舌はあの味にすっかり慣れてしまったんだ(おそらく、唯一まともに出来たそれを俺が褒めてしまったことも原因なんだろうけど)

あいつの作るスープよりやわらかく煮込まれたタマネギをスプーンで潰しながら未練がましい胃袋にいらいらする。これを口に入れる気はもうない。

かちり。と、スプーンが皿の底にぶつかり、一際大きな音が鳴った時、俺はたまらずスプーンを放り投げた。フローリングに落ちるスプーンの硬質的な音を聞きながら立ち上がると、電話に向かう。
俺のほうからあいつにかけたことなんて無い癖に、語呂が良かったこともあってか番号はまだ記憶していた。

コール音を数えながら、落ちたスプーンをさらに蹴飛ばしてやる。八回目のコールの途中で急に音が途切れ、くぐもった声が聞こえる。

「はい。もしもし」
「やあ」

電話越しの一言でも受話器の向こうが俺であることがわかったらしい。「あ……」と漏らすと、抑えた声で言う「……メローネ?」

「うん」

久しぶりに呼ばれる名前だ。知らず口角が上がる。
何から話そう。軋んだ関係を取り繕う言葉はどんなに考えても浮かびそうもなかった。当たり前だ。理由を知らないのだから。
自分の髪を弄りながら様々な台詞を考えても、結局行き着くのはスープのことだ。

「腹が減ってるんだ」
「……?」
「何か食べたい。外食には飽きてね」
「……別に料理できないわけじゃないでしょう」

そっけなくそう返される。感情を無理矢理抑えたような口ぶりだ。

「君の作ったのがいいんだ」
「……」
「ね、いいだろ?作ってよ。あのスープ。全然簡単じゃなかったよ」

実際は、簡単だった。彼女のよりもずっとうまく出来た。なのに満足出来ないなんて、あんたのおかげで厄介な舌になってしまった。

「あんたの料理食べないと餓死するかも」
「……それは、大変」
「だろ?」
「すぐお葬式の準備しなくちゃあ」

そう言うと一瞬の間を置いて彼女は笑い出した。鼓膜を擽る控え目な声。もっと良く聴こうと受話器を耳に押し付ける。
下らないジョークさえ今は良かった。ただひたすらに空腹だった。

「今からそっちに行くよ。なんなら材料持ってくる」

余ってるんだ。いっぱい。そう言ってみれば、受話器の向こうで笑い声が止み、戸惑ったような空気が流れる。

「そんな、まだ作るなんて……。大体、」そこで彼女は言葉を切った。そうして、低く呼ぶ「……メローネ」
「何?」
「……。あなたの仕事のことなんだけど、私、その」
「俺の?つまらないデスクワークがどうかしたかい?」

彼女の言葉を遮りそう言う。
あいつは本当のことをどこかでしまったのか。それが出て行った理由なのだろうか。
そんなことを考えつつも気持ちは酷く冷静だった。嘘を吐くことに慣れすぎた。

「ん、いい。……勘違いだったみたい」

随分の間を置いて、彼女はそう答えた。

「何それ」
「いいの。なんでもなかった」
「じゃあ、作ってくれる?」
「今から、そっちに行く」
「待ってるよ」

それだけ返すと、すぐに通話を切った。俺はその場で一息つくと、あのまずいスープを鍋ごとひっくり返してやるためにキッチンへと向かった。







すぅぷのあるくらし






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