ななしがその日夜遅くまで起きていたのは、少しだけでも彼と話がしたい、ただそれだけの理由だった。特別なことがあったわけではない。明日の天気でも近所の野良猫が子供を産んだことでも、何だって良いから言葉を交わしたかった。 平山は夕飯も食べずに出て行って、彼女が眠りについた後に帰ってくる。それでも初めの頃は朝に起きていたが、近頃はそれが辛いらしく昼頃までずっと眠っている。彼女は彼の昼食を作り、仕事へ出て行く。夕方に帰ってくる頃には彼は部屋を出る準備をしていて……こんな調子だから、近頃はまともな会話も出来ていなかった。 一人で黙っていると、物置の中で暮らしていたことを思い出していけなかった。気を遣わせるのが嫌で何ともないふりをしていたが、寂しかったのだ、結局のところ。 布団を二組敷き終え、寝間着に着替え、眠くなれば腕を抓って、明日の献立を考えたりしながらじいっとしていた。時刻はもう夜の零時をとっくに過ぎている。 こんな真夜中までお仕事だなんて、大変だなあ。お腹、空いたりしていないかな。そんなことを考えながらあくびをしていると、外から足音が聞こえ、部屋の隅の玄関ドアががちゃりと鳴った。彼女は慌てて目に浮かんだ涙を擦る。 扉を開けた平山は明かりが灯っていることに驚いたように一瞬動きを止め、それからななしを見て「まだ起きてたのか」と呟いた。靴を脱ぎながらサングラスを外し、眩しそうに顔をしかめながら部屋の時計を見やる。 「おかえりなさい」 「ああ……いい加減寝ねえと朝起きれねえぞ」 「何だか眠れなくて」 「……平気か? 何か温かいもの淹れてやろうか」 優しい言葉に彼女は何だか無性にほっとして「ありがとうございます。自分で淹れるから平気ですよ。ゆっくりされていてください」と立ち上がった。 「ちょっと、待ってくれ……」 茶を淹れようと台所へ向かおうとする彼女を彼は制し、スーツの内ポケットから細長い箱を取り出すと差し出した。 「あの、な。これ……」 「え?」 「……やる」 「何ですか、それは?」 きょとんと瞬きをしている間に、平山は無言で彼女の手に箱を押しつけるとスーツを脱ぎハンガーへ掛けて壁に吊るした。 「えっと……。開けても良いですか?」 ななしに背を向けた彼が小さく頷いたのを確認すると、布団の上に座り込み、包装紙を丁寧に剥がしていく。白地に赤いバラの描かれたデザインが可愛らしい。この紙、本のカバーにでもしようかな、と思いながら、指の先で絵を撫でた。 出てきた白い箱を開ける。内側には白い布が張られていて、その上には丸い粒がいくつも並んでいた。 「わ……」 それはいくつもの粒が連なり輪をなした、真珠のネックレスだった。思わず取り落としそうになるのをこらえれば、箱の中で真珠たちが動き、擦れあって微かな音をたてる。 「これ……私に?」 問いかければ、彼は照れ臭そうに手で首の後ろを撫でながら「ああ」と一言答える。 「ありがとう……ございます」 そう言いつつも、ななしの声はどこかうかない。 「……でも、これ、とても高いでしょう。本当にいいんですか?」 「大した額じゃねえよ」 大した額じゃないって、そんなわけがないだろう。シンプルだが大粒で、一見するとミルクのように白いが光の当たり方によっては淡く桃色に見える。ほろほろと上品に光るさまは、今まで駄菓子屋のちゃちな玩具のアクセサリーくらいしか見たことがなくろくに知識のない彼女でさえ、気の遠くなるほど高価なものだとわかった。恐る恐る指先でつるつるの表面をつつくだけでも、心臓がどきどきと落ち着かない。銀色をした留め具が、裸電球に照らされて眩しかった。 「……余り好みじゃなかったか?」 「え?」 顔を上げれば、平山がななしを見下ろし訝しげな顔をしている。 いつの間にかじわりと浮かんだ手の汗を寝巻きで拭い、彼女は慌てて首を振った。 「いえ、嬉しいですよ……」 実際には、嬉しいというよりも触れることさえ躊躇うようなものを買う金が一体どこから沸いて出たのか、そちらの方が気になって彼女は戸惑い顔で途方にくれることしかできなかった。 長い間、駄菓子屋で飴玉一つ買うことさえ気軽に出来ない暮らしを強いられてきたのだ。平山だって、賭場で博打を打って得た金で口に糊して生きてきた。そんな細々とした生活に、急にこんな高価なものが現れても、正直言って気味が悪く恐ろしかった。仕事……彼の仕事で得た金で買ったのだろうか。だとしたら、益々彼のやっていることの得体が知れない。こんなの、まともに働いても簡単に手に入れられる筈がないだろうに。 そんな思いが表情にまで現れてしまっていたのだろう。彼は疑わしげな顔でこちらを見やる。 「……本当にか?」 「ええ……」 ただ……。無意識に、ななしはそう呟いていた。 ただ……出来ることなら、こんなに戸惑うくらいに高価なものを頂くよりも、以前みたいに二人で夜中に公園を散歩してブランコ漕いだり、土手に座って川面を眺めたり服にとまった蝶を息を潜めて見つめたり、チョコレートの銀紙で鶴や蛙を折ったりしたいんです。以前、少し遠くまで足を延ばそうって、隣町までぼんやり歩いたら草が伸びっぱなしの広い空地を見つけて……そこに咲いていたシロツメクサで平山さんが器用に作ってくれた花冠、とっても嬉しかった。どんな高価な宝石よりもこれが何より素敵ですってあの時言ったこと、嘘じゃないんですよ。「今度は蓮華草で作ってやる」って約束、まだ覚えてます。一緒にゆっくりとご飯を食べるだけでもいい。近頃は、それすら難しいから。 そう、言いたかった。けれど、それがあまりにわがままなことだともわかっている。彼は自分のしたいことをして、それに忙しくはあるが以前より金を稼いでいるようだ。商店街の喫茶店の給料くらいじゃ到底買えやしないようなものまでくれて、文句なんて言えやしない。だから、彼女は「ただ」から先を言えなかった。 言葉を飲み込み、曖昧に笑ってみせる。 「……ごめんなさい、何でもないです」 けれど、平山が微笑みを返すことはなかった。 |