「……早くに逝ってもあなたは長く生きてって、前に言ってたろ」

はっとして顔を上げれば、彼の掌が涙でぐしゃぐしゃになった頬をそっと撫でる。
俺も同じ気持ちなんだ。低く、優しい声音が鼓膜に滑り込んだ。

「お前には、長く生きていてほしい」
「……。……これは、私の夢、ですよ」

しゃくりあげながら、私は言う。自分でも情けなくなるくらい、へにゃへにゃのひどい声だった。

「なら、あなたのその言葉も、私の頭が作ったでたらめなんでしょう?」

そうかもな。彼はあっさりと頷いた。

「けど、俺とお前は長くここで一緒に暮らしただろ? 無駄な言葉を交わさなくても、互いの考えてることを理解できるくらいには……俺達はわかりあえてたと思ってる」

彼は微かに耳を赤くさせて、照れたように目を逸らした。そんな些細な仕草さえ、彼らしい。私の中の幻だとは思えないほど。

「お前の目の前の俺は確かにお前の作ったまがい物だ。だが、俺の吐く言葉は本当の平山幸雄の考えと、寸分違わない」

そう思って、聞いてほしい。彼は私をまっすぐに見つめ、ゆっくりと言った。

「生きてほしい。ななし」

穏やかだけれど、力強い語調だった。心臓にするりと忍び込んで、強く揺さぶる。
けれど私はまだ往生際悪く、うなだれて力なく首を横に振った。

「私はあなたがいなきゃ、何にもできない……弱いんです」
「……お前は、強いよ」
「強くなんか……」
「確かにお前は甘ったれで泣き虫だ。けど、本当は強い女だ。それは、俺がよくわかってる」
「……」
「月並みな台詞だが……俺の分まで、生きてほしい」

彼は私を抱きしめたまま、床に座り込んだ。子をあやすみたいに頭を撫でて、子守唄みたいに温かく優しい声で語りかける。

「俺の代わりに、旨いモン食えよ。それで、時々は貸本屋で婦人雑誌以外の本借りて読んで、映画観て、流行りの曲聴いて、近所の奴らとどうでもいい世間話して……」

彼の言葉が、途中で苦しげに詰まる。
私はそっと彼の表情を盗み見た。きゅっと目蓋を閉じて、眉を顰めている。どうしてだろう。涙なんか流していないのに、私には彼が泣いているみたいに見えた。

「……春には桜見て、夏は祭りに行って、秋の落ち葉で押し花でも作って。冬は……雪が降ったらそれで遊べ――そんな風に季節を過ごして、時代とともに変わってく町並みを、俺の代わりに見てほしい」

ああ。そうか。察しの悪い私はようやく気が付いた。
離れ離れになって、辛いのは私だけではなかったのだ。この人はもう、美味しいものも食べれないし、四季で移り変わっていく町の景色を見ることもできない。彼の時は永遠に止まってしまった。

「俺のとこに来るのは、婆さんになってからでいい。そうしてお前が見たこと聞いたこと、俺に話して聞かせてくれ」
「……大役、ですね」
「ああ。後から俺に話すんだからな、ちゃんと覚えておけよ」
「私、幸雄さんみたいに記憶力よくないから、ちょっと不安です」

そうだな、それは少し心配だ。彼は肩を揺らして笑った。

「……出来るな?」
「……。……頑張ってみます」

私の答えに、幸雄さんはほっとしたように体の力を抜いた。お前の土産話、楽しみに待ってる。そう言って、私の手に指を絡めた。痩せ細っちまったな。彼は目を伏せ、哀しく呟いた。

「……起きたら、飯ちゃんと食えよ。しばらく水しか飲んでなかったから、急に食べ過ぎるのはよくないが……。粥作って、ゆっくり時間かけて食え」
「……ん、はい」
「少ししんどいだろうが、外を少し歩いたほうがいい。日の光浴びろ」
「わかりました」
「髪、ちゃんと梳けよ。服も整えて……そうだ、部屋の掃除もしろよ。ろくにしてねえだろ。埃、溜まりに溜まってるぞ」
「ふふ……」
「何だよ?」
「だって、幸雄さん……お母さんみたいなこと言うんだもん」
「ば、馬鹿やろ……」

狼狽した様子で、彼は私の頬をきゅっと抓った。

「俺は……。俺は、お前の、こっ、恋人……だったんだぞ」
「ううん」

それは違いますよ。私は静かに首を振った。

「“だった”じゃありません。恋人ですよ。あなたは、今でもずっと」

彼をじっと見つめてきっぱりと言ったら、彼の瞳の奥が微かに揺らいだ。大きな手がすっと伸ばされ、私の顎を掴む。彼の顔が近付いてくる。震える息が鼻先を撫でた。
私が瞳を閉じると、程なくして唇に熱く柔らかな感触が押し当てられる。
一年ぶりの、キスだった。

「お前は強いよ。強い……」

すぐに唇は離れ、彼が耳元でそっと囁いた。私は目蓋を閉じたまま、彼に頬ずりをした。目を開いてはいけない気がしていた。
彼の頬は、微かに濡れている。幸せになってくれ。押し殺したような声が聞こえた。私は強く頷いた。




――目を開けると、そこは薄暗い部屋の中だった。
蒸し暑く淀んだ空気、埃っぽい布団。お味噌汁の香りはしない。彼も居ない。現実に戻ってきてしまったらしい。
私は布団の中で大きく伸びをした。天井を見つめ、しばらくぼんやりとする。夢の中の朝食の香りが鼻腔の奥にふっとよみがえってきて、唾液が溢れてくる。お腹が小さくグウと鳴いた。
空腹だ……久々の気分に驚く。
おなかがすいた。私、おなかがすいてる。思わず口に出して呟いた。自然に、口元がゆるんだ。ゆっくりと上体を起こす。頭がくらくらとした。ろくな生活をしていなかったから体調は最悪で、少し動いただけで嘔吐感が込み上げてきた。深く深呼吸をして、何とか落ち着く。

今日はお布団を干して、部屋の掃除をしよう。カーテンを開けて、日の光を入れよう。梅干入りのお粥を作って……お味噌汁も、少し食べよう。彼の作ってくれた、お豆腐とわかめと油揚げの入った赤味噌のお味噌汁。
それから……午後には外へ出てみよう。夏の空の青さを、蝉の喧しい鳴き声を、駄菓子屋で買うサイダーの甘さを、向日葵の鮮やかな色を、全部記憶に焼き付けよう。


私の恋人に再び巡り合った時、きちんとそのすばらしさを教えてあげられるように。








再びあなたにう日の為に
(たっぷりお土産話用意しておきますから、覚悟していてくださいね)






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