彼女は無口な女だった。四六時中上下の唇をくっつけたままで、うつむき加減に縮こまって大人しくしている。
彼と会ってもほとんど会話らしい会話なんてしない。言うことと言えば「うん」や「ありがとう」くらいだ。声は小さな物音にも負けるほど頼りなく、聴きこぼさないようにいつも気を張らねばならなかった。名前を呼ぶことすら照れくさいらしく、いつだって「あの……」だとか「ねえ」なんて言って彼を呼んだ。イルーゾォ、と呼ばれたことなんて、もしかすると一度だってないかもしれない。
ベッドの上ですらこんな調子だから呆れてしまう。

それでも彼は彼女のことを嫌いにはなれなかった。
心持ちは優しく穏やかだし、仕草は可愛らしい。
近所のパン屋で買ってきたチョコレートのたっぷりかかった甘ったるいパンをしあわせそうに頬張って、口元に付いたチョコを恥ずかしそうに舌で舐めとったり、彼がうとうとしているとこっそり髪をくいっと引っ張ってきたり。そんな仕草がたまらなく愛おしかった。
外を歩けばいつでも彼の少し後ろをちょこちょことついてきて、数歩進むたびに顔を上げ彼の顔を見、ふと目が合うとはにかんでみせる。ろくに喋らぬこともあいまって、なんだか犬っころでも連れているようで可笑しかった。

だが時折、あまりの静けさに不安になってしまう時もある。いつだってこちらの喋ることに、彼女はこくりと頷くばかり。考えていることがうまくつかめないのだ。
恋人同士なのだから一緒に居るうちにいずれは彼女の口数も増えていくだろうと思っていたが、いつまでたっても変化はない。そうなると、何だか自分のことを本当に好いてくれているのかと不安になってくる。
女々しいかもしれないが、時にははっきりと言葉で好意を示して欲しいのだ。

あんまりにも声を発さぬものだからしびれを切らして「少しは喋ってくれよ」なんて言ったこともある。
けれど困ったように頬を赤らめて「あなたといるとどきどきして、うまく喋れないから」なんて囁かれては何も言えなかった。





「……平気か?」

そう呼びかけて、ベッドの上で乾いた咳を繰り返す彼女の肩を叩いた。
ひゅうひゅうと苦しげな息を吐きだし、彼女はまつげをかすかに震わせた。細くまぶたが開かれる。瞳はどんよりと淀んで、涙で微かに潤んでいた。

「冷蔵庫にあったオレンジ、勝手に使った……飲めるか?」

体を起こしてやり、先程絞ったばかりのオレンジジュースを手渡す。彼女は両手でグラスを持つと、種の入り込んだ鮮やかな橙の液体をぼんやりと眺め、ありがとう、と細い声で呟いた。風邪で掠れた彼女の声は、いつも以上にへなへなと力無く、手は寒いのか小刻みに震えている。
久しぶりに時間が出来たものだから会わないかと連絡してみれば、受話器越しに切れ切れに「風邪引いちゃって……」なんて言うから慌てて飛んできた。
聞けば寝込んでからもう3日も経つというのだから呆れた。それなら熱を出した時点でこちらに電話くらい寄越してくれればいいだろう。いくら会話が苦手だからってそれくらい言えないものなのだろうかと、彼はいよいよ虚しくなってくる。

余程喉が渇いていたらしく、オレンジジュースは瞬く間に飲み干された。彼は開いたグラスを取ると、空いた手で彼女の半開きの唇の端から垂れたジュースを拭ってやる。

「スープ作った。食べれそうか?」
「……」

聞いているのかいないのか、彼女はぼんやりと彼の目を見返すばかりだ。
彼はそっとため息を吐くと、「少し注いで来るから、ちょっとだけでも食べてみろよ」とキッチンに行こうとする。
だが、服が突っ張る感覚がしてすぐに振り向いた。見れば、彼の服の裾を彼女の手がやわくつかんでいる。

「……どうしたんだ?」
「こ、うすい」
「……?」
「いつもの香水の匂い、しない……」
「ああ……。今日はやめといた。風邪引いてる時にきつい香りはまずいだろ」
「……」

彼女はそっと目を伏せた。それから弱々しく腕を伸ばすと彼の体に巻き付け、のろのろと抱きついてきた。

「!」
「……やさしい、ね。イルーゾォ」

腹の辺りに顔を埋め、彼女がぼそぼそと言った。

そういうところ、すき。だいすき。

へにゃへにゃと甘ったれた声が聞こえる。唇がやわやわと動くのを、シャツ越しに肌に感じる。息が熱い。
どうやらいつもは恥じらいのせいで固い口が、風邪で朦朧としているせいで緩んでいるらしい。

くっついてるとあったかいね。あなたの体、あったかくてきもちいい。安心する。ね、イルーゾォ、すき、すき。とってもあんしんする。ねえ、イルーゾォ、スープはあとでいいから、しばらくこうしていて。

普段のだんまりはどこへやら、彼女の唇からはぽろぽろと言葉が零れ、止まることを知らない。こんなにたくさんの甘い言葉なんて聞きなれていないものだから、驚いて息をするのも忘れてしまいそうになった。
彼はちょっと顔を赤くさせながら、彼女の体をそっと抱きしめてやった。彼女の風邪が治るまで、ずっとそばを離れずにいよう。一つの言葉も逃さぬように。
ああそれにしたって、彼女の唇から夢心地で紡がれる自分の名前はなんて心地いい響きをしているのだろう。

「イルーゾォ……」

顔を上げて、彼女はもやもやとつぶやく。

「……ん?」
「あなたといっしょにいれて、わたししあわせ」

とろんととろけた甘い言葉にたまらなくなって唇にそっとキスをすれば、彼女は困ったような顔をして「風邪、うつっちゃってもしらないよ」と笑った。








ことばの海におぼれる日





風邪が治ったら全く覚えていない。





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