昨夜、博打打ちの男が死んだ。住んでいたアパートの外階段のそばで倒れているのを朝方大家が見つけたらしい。傍にはカップ酒の瓶が転がっていて、中には一匹の蛾の死骸が入っていたと言う。
正確な歳を平山は知らなかったが、おそらく60半ばといった所だろう。
禿げあがった頭がやたらと老けて見せていただけで、もしくはもっと若かったのかもしれない。

男は足腰が弱かった。大方負けが込んで、残った僅かな金で安酒飲みながらねぐらへ帰っている途中に階段で足を滑らせたのだろう。

平山は特別この男と親しかったわけではなく、単に数度、雀荘で顔を見たことがあるというだけだった。2、3度は同じ卓にも着いたが、大して興味を引くほど腕のある打ち手であったわけでもなく、感心したことといえば、アル中らしく酒が切れると博打打ちにはみえない短く太い指がしきりに震えるくせに、一度も牌を取りこぼさなかったことくらいか。
平山はさしてその男に関心など持ってはいなかったが、あちらさんの方はというと若いというのに博打で食っている彼のことを気に入ったのか、一度雀荘近くの居酒屋で偶然鉢合わせた時、親しげに話しかけてきて一杯奢ってくれたことがあった。弱っちい腕のくせに延々と偉そうに麻雀の講釈を聴かせられたのには閉口したが。

男に身内は居ないらしかった。大家は男の部屋の電話の側にあったチラシの裏を束ねたメモ帳に書いてあった連絡先(くだんの雀荘やら、博打仲間やら、バーのママやら)に片っ端から電話をかけて男の訃報を知らせたが、律儀にアパートまで訪れたのは平山一人だけだった。
何てさみしいものだろうねと、吸殻と酒瓶ばかりが転がる部屋を片付けながら大家は平山に言った。
博打打ちの死って言うのは、こんなにも虚しいものなんだね。あんたは……どういう関係だったのかは知らないけど、こうなってはいけないよ。ま、あんたは見た所真面目そうだし、そんな心配ないか。

彼は自分も同じ穴のムジナだとは言わぬまま、曖昧に頷いて部屋の掃除を手伝い、線香をあげた。
女手が必要かと彼女を連れてこようか随分迷ったが、一人で来て正解だった、と思いながら。
博打打ちのあまりにみじめな最期を、あいつに知ってほしくはなかった。



「おかえりなさい、幸雄さん」

何にも知らずに明るく出迎えるななしの顔を見て、平山の表情は反射的に強張った。

「幸雄さん?」

彼女の方をまともに見ていられず、側をすっと通り過ぎて、スーツも脱がずに畳に寝転がる。そんなだらしのないこと普段はしないから、これはおかしいと思ったらしい。「どうされました?」と彼女が顔を覗きこんでくる。彼は顔を逸らして目を閉じた。

「お茶、飲みますか?」

いや……と呟いたが、声は掠れて言葉にならなかった。仕方なく、力無く首を横に振る。

「そうですか……。そうだ、ご近所さんから林檎頂いたんですよ。食べましょう?」

けれどまた、子供のように首を振る。ななしが困ったように微笑んだのが、息づかいで感じ取れた。

「疲れていらっしゃるんでしょう? 甘いものをちょっと食べて、今日はもう休んだ方がいいですよ」

平山は何も応えなかったが、彼女は台所に向かっていく。彼はゆるゆると目を開け、手に持っていたカップ酒の空瓶を部屋の明かりにかざしてみる。
男が最期に飲んでいたと言う酒の瓶を、ごみ袋に突っ込めないまま持って帰ってきてしまった。じっと眺めてみる。ふちが欠け、ラベルの端が少し擦り切れている。ラベルに書かれた文字をなんとなく眺めてみるが、文章が頭に入ってこずに目は上っ滑りするばかりだ。内側には蛾の鱗粉が付いており、かすかに白く光っている。
彼は蛾のことを思った。狭っ苦しい世界に迷い混んで、外に出ようと必死に瓶に体をぶつけてもがいて、やがて力尽きたのであろう蛾のことを。
ほとんど無意識に、唇が開いていた。

「なあ、もし俺が……」

死んだら……。我に返って、続けようとした言葉を慌てて飲み込んだ。かぶりを振る。
半分に切った林檎を片手にななしが振り返った。

「ごめんなさい。何かおっしゃいましたか?」
「いや……何でもない」

俺はあんなみじめな死なんて御免だ。あんな死に方、してたまるか。俺だって牌を握るが、俺は冷静に、あの世界で生き延びてみせる。そうだ。博打にのめり込んで死ぬなんて、馬鹿らしい……。
ふいに甘い香りが鼻腔をくすぐり、平山の考えを中断させる。

「幸雄さん。切りましたよ。起きてください」
「ああ……」

瓶を傍らに置いて、起き上がる。彼女は向かいにしゃがみ込み、皿を差し出した。ささくれた心には胸焼けしそうな蜜の匂いも赤と白の色合いも、妙に染み入って感傷的な心地になる。

「お布団の用意しますから、食べていてくださいね」

頷いてはみたものの、どうにも口に入れる気力がない。無理に食べようと林檎を一つ掴んだが、中々口に運べない。
彼女は彼のことが気になるのか立ち上がりかけたのを止め、不安げに見つめている。
何でもないと振る舞いたくて何とか一口齧ったが、うまく飲み込めない。
どうしてか、一人の孤独な博打打ちの死に、こんなにも動揺している。自分とは何ら関係などないはずなのに、俺にもあんな物悲しい死が訪れるのではと……。

「……幸雄さん」

たまりかねたようにななしが言って、平山の腕に両掌でそっと触れる。林檎が手から落ちて、畳に転がった。
視線から逃げようとする彼の目を覗き込んで見つめ、遠慮がちに微笑む。

「……今日は、一緒のお布団で寝てもいいですか?」
「――」

その言葉に、彼は弾かれたように彼女の体を抱きしめた。勢い余って、抱きしめたまま畳に倒れ込む。ことりと、カップ酒の瓶が倒れた音がした。

「ゆ……きお、さん。これじゃ、お布団、敷きに行けません」
「……俺は、俺には、お前がいるものな」
「え?」

ななしの肩に顔を埋める。彼女はくすぐったそうに身を震わせ、「林檎、はやく食べないと色が変わっちゃいますよ」と苦笑しながら、彼の背を優しく撫でた。
こいつがいるのなら、平気だ。そう思う。俺は惨めに死んだりなんかしない。彼女を一人にして、この部屋に置き去りにするような真似などしない。無頼の博打打ちの生き方としては本来違っているのだろうが、俺はそんなことで力を鈍らせたりはしない。この女と生きていきたい。
彼女は転がってきた酒のカップを拾い、不思議そうに眺めた。

「幸雄さん、これ、どうされたんです?」
「……捨ててくれ」

ただの瓶だ。
呟けば、そうですか、と彼女は微笑んで、彼の頭をそっと抱き寄せた。






瓶底の蛾








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