本人の意思とは無関係に人は生まれてくる。場所も条件も、お構いなしだ。
そしてその1人、ドナテロ・ヴェルサスは人間の幸福配分の不平等すぎる底辺部分にいる男だった。
発展途上国の食料不足の人間や戦場に若くして駆り出される少年兵や売春を余儀なくされる悲惨な少女、闘病の末に命を散らしていく短い生や凄惨すぎる虐待や同級生からの陰湿ないじめを受けて辛抱する人間の方がよっぽど「不幸」であるとヒエラルキーを定義づけたがるものだけれど、案外、衣食住がそこそこ満たされている上で「楽しい思い出」を経験したことがなく、辛酸をなめ続け、抗っても努力しても無駄足というぬるま湯を腹いっぱい飲み続ける苦痛を味わったことが殆どないからそう言える。
これはこれで一種の拷問に等しい。

「幸せになりてえ……」

それが口癖になりつつあった。心の中や一人の時にしか言わないようにしているけれど、ドナテロ・ヴェルサスは心底、幸せになってみたかった。正確にはちょっとくらいは「ラッキー」と思える日々を365日中の30日くらいで良いから送りたかった。
悩みを打ち明けるのは通常であれば両親や友人であるが、彼の両親はとてもじゃないが自分に少しでも関心があるとは思えず、友人についても、ただつるむだけで本能的にこれは友情ではない、としっかりと悟っていた。
幼い頃から甘えられないドナテロは不幸の中で洞察力や五感を磨く才能が培われていた。全然実生活に役に立たない特技だけれど、食べたものがどんなに形を変えようが全て食材を当ててしまえるように細かい事象全てに目が届くけれど、視界はクリアでなかった。実際の意味合いでも、心の意味合いでも。

その自分に転機というか好転が起きたのは驚くべき事だった。これはもう彼の人生において最大の奇跡と断言していいだろう。

その日、彼がふらっとした足取りでただ予定もなく歩くと女性にぶつかった。混みあっている大通りでも繁華街でもない休日の公園だ。案外勢い良くぶつかったせいか、角度のせいか、女性のトートバッグの中身を地面にぶちまけてしまう。ポーチ、サイフ、ペンケース、手帳にハンカチやソーイングセット、携帯電話に至るまで。
彼が茫然と見つめていると彼女はすぐに「ごめんなさい」と告げる。ぶつかったほうが謝るのが通常の礼儀であって、彼女は文句を言うか謝罪に対しての返答をするはずなのに。性格のひねくれた自分や周囲にはいない珍しい女性だ。というか、かわいい。予想以上に可愛らしい女性で思わずドナテロも謝ろうとする。

しかし最悪だった。
彼女はどうやらコーヒーを買ったばかりだった。手元に有名なコーヒーショップのトールサイズのカップを抱えて中身が滴っていた。ドナテロがぶつかったことによってカップのフタが緩かったのか半分以上が衣服……清楚なワンピースにしっかりとかかり色合いを変化させてしまっていた。
クリーニング代の弁償を請求されることを念頭に置きながら、せめて地べたに散らばった荷物くらいは拾ってやろうと屈む。案外多いそれを一つずつ拾って渡す。小ぶりのショッパーバッグを持ったままの彼女と共に。
「ありがとうございます」
しかし、礼を言い終わってもトートバッグの中身を凝視した後にいつまで経っても彼女はそこから動かず、周囲をきょろきょろと見渡している。まだ拾い忘れがあったのか、と思わず彼も探す。
自分にとって不幸なことはどこまでも見つけやすいらしい。ドナテロは、これも最悪だ、と実感した。自分はどこまでも、どこまでも運に見放されているらしい。
彼と彼女は丁度、噴水の傍を通っていた。サイフを落とした場所はよりによって噴水の水たまりだった。静かに落ちたから気付かなかった。

「本当にありがとうございます」
「別にいいですよ」

そもそも彼女にぶつかったのは自分なのに感謝されている。彼は丁重な扱いに信じられなかった。結局、ドナテロが冷たい水に手を突っ込んでサイフを拾ってやった。
折角拾ってくれたから、とドナテロに時間はあるかと尋ね――そもそも彼に用なんてなかった。働いてすらいないのだから――ハンカチでコインを全て拭いて洋服の染みも気にせず、個人経営のやや値の張るカフェに入り、コーヒーまで奢られている。彼女はコーヒーのかかった衣服のクリーニング代も請求してこない。むしろ嬉しそうな表情をしている。約束があったらしく先にドナテロに謝ってから相手に携帯電話で断りの連絡を入れていた。
彼にとっては滅多に無い良い出来事で自分の運みたいなものがあるとすれば、今日1日で全て使い果たしているのじゃないか。そう考えてしまう。

「私、ななしって言います」
「ドナテロ・ヴェルサス」
簡潔に自分の名前を名乗り、ななしの左耳のピアスを見つめながらコーヒーを啜った。

先に女性用の化粧室で服を着替えたななしはショッパーバッグの中に収まっていた丁度買ったばかりという違う色のワンピースを纏い、まあ元が可愛ければ何でも似合うのか、と女性のファッションに疎いドナテロは考えた。
混みあった店内で席が見つかるという事自体、彼にはラッキーで幸福な日は慣れていない。不幸に慣れきった人間というのはどんな幸福、たとえささやかな幸せであっても、次の大きなマイナスに繋がるバネのように考えてしまいがちになる。

「ドナテロさんは今、好きな方や彼女はいますか?」

これは事実だろうか?。彼は真剣に何か罠にはまりかけているのか、俺は、と焦り始めた。ななしの思い切った質問に恐怖すら覚えつつ「いないですけど」と真実を答える。
ななしは答えに目を輝かせた。

「あの……突然すぎると思うでしょうけど、私と付き合ってくれませんか?」
ななしは自分に関心を持った様子で好意めいたものが隠せずにいる。分かりやすい女性だ。
彼は人生で初めて告白をされて、本当に怖くなった。恋の到来とはこんなに恐ろしいものだったのかと身構える。自分が出会ったなかで間違いなく群を抜いて可愛らしく清楚でまともそうで、性格も短時間でしか知らないが好意的な女性で冗談ではなさそうだが、彼は滅多に無い機会にすっかり萎縮してしまった。
こちらを見つめて頬すら染めている彼女には、申し訳なかったけれど。
「ちょっと……お互い初対面なので……いきなり付き合うっていうのは」
言葉を濁す。かわいい顔して遊び人なのか、となんだか軽い女にも見え始めた。
性急すぎたと彼女も考えたらしい。頬を染めつつ「私、本気なんです」と理由を話し始めた。
彼は萎縮しつつもななしの話の続きを聴いた。彼とは真逆の人生を辿ってきた彼女の話を。


ななしはまず、自分は驚くくらい何もかも上手くいく人生を歩めてきた、と話を始めた。
生まれはそこそこ裕福である。両親の仲は良く、一人っ子ということ、初孫ということもあり祖父母から可愛がられ、夏休みには海外旅行に行ったりが当たり前でクリスマスにはプレゼントを毎年“サンタクロース”からしっかりもらい今まで家族に不満を抱いた事はなかった。
勉強もスポーツも出来た。出身大学を聞いてドナテロは驚愕したが、エリート中のエリートだ。会社でも新卒で羨ましいほどの大企業に勤め始め現在もそこで働いている。つまり、何をやらせても優秀で一番になってしまい、周囲が妬むそぶりがあっても彼女を認めざるを得ない人間だった。自覚があるほどに。
しかし、ななしは声を落とした。ななしは何一つ努力も達成感も味わったことがないという。挫折も強烈な不愉快も。友人関係は驚くほど円滑で周囲の人間はとても大切だが、皆恵まれたように平和な顔つきで彼女と似たような境遇の人間ばかりである。両親は元気で健康そのもので自分も大病をしたことがない。
欲しいものは全て手に入った。
懸賞を応募すれば殆どに当選し、試写会でハリウッドスターのサインをもらいに行けばほぼ必ずサインしてもらえる。自分が若くして高給取りなのでハイブランドも揃えやすい。入手困難なものはキャンセルや何故かめぐり合わせのように売り切れ間近でななしが先に購入できた。旅行も海を渡ってどこにでも行けて、飛行機に乗ろうとしたのにタクシーの渋滞からギリギリの時間になってしまい確実に間に合わないと思ったら間に合いエコノミークラスで予約を取ったのに搭乗口に席の近いビジネスクラスで快適にフライトを楽しめ、ホテルでは前日の客が伝染性の病気だかでスイートルームに泊めてもらえることもあった。ハイスクールではチアリーダーになり、仕事の取引の関係で外国語も割と話せる。好きな男の子とは告白も相手からしてくれて全て付き合えた。別れも円滑で今までの恋愛は苦すぎるということもなく、ファーストキスは初恋の子と12歳ですぐに出来た、という。

「……全部聴いているとマジで羨ましいけど、俺へあてつけてんのか?」

思わず敬語抜きで呆れたように話してしまう。他人行儀の礼儀もなくなり頬杖をついて溜息をつく。自分の人生の幸福がこの女に全部吸い取られていたから俺は不幸だったのか、と妬みたくなった。

彼女は今日、初めて人生でついていないと思えた。休日の午前中にショッピングをし、昼時のデート前に公園で日差しも良いからコーヒーでも飲もうと歩いていたら、お気に入りのワンピースに熱いコーヒーをこぼし、サイフは水没、おまけに先ほどの電話では観たかった映画をボーイフレンドとこれから観る予定だったけれど、彼は顔の素敵な男性だから自分以外の女の子とデートすると言われ先ほどフラれたも同然だ、と。全てドナテロに会った結果から起きた、という。

「違います。真剣なんです。だって彼はとっても素敵だったのにドナテロさんが現れた途端に私、はっきりした失恋じゃないけれど好意をよせていた男性に遅れるって伝えたら『残念だけど、他に観たいっていう子がいるんだ。その子と行くよ』って言われたんですよ?私とその子、こっそり天秤にかけていたって最悪じゃないですか。それにコーヒーを溢したのは前のボーナスで買った一番良いワンピースです。確かに買い物をしておいたから新しいワンピースに着替えられたのはラッキーだったかもしれないですけれど……。あと化粧室で気付いたけれど、耳にしていたピアス、ここに来るまでに片方落としていたんです。いくら繊細な作りでもそんなこと今までなかったのに」

だから片耳だけだったのか。ファッションの一環じゃなかったらしい。

それに、とななしは続けた。

「ドナテロさんは私のさっきの告白を、先ず、断わりました。人生で1日に2回もフラれる。こんなの前人未踏なんです。それに、私“深み”っていうか、“大変だったけど、良かった”っていう経験をしたいんです。人生とか恋愛で。ドナテロさんに会った事で少なくとも浮気の心配のある男性とは縁が切れたって分かりました。ワンピースは……残念だったけど」

ななしは決して自慢でもなくドナテロを責めている口調でもなく表情にも何もかもにも真摯さがこもっている。
ドナテロは真剣に考えた。本当にこの女はさっきの話のとおりの人生を歩んできたのか?。実は作り話のメンタルに問題を抱えている女性でファッションは全てローンやカードで支払っているんじゃないか……。嫌な考え方をしてしまう。

怪しんで、ドナテロはじゃあ、と提案をする。
「本当にななしがラッキーな女か試そう。今、お前のサイフは紙幣が濡れてコーヒー代を抜けばほぼ文無し同然だよな?俺は腹が減った。けど俺は金がない。そもそも働いてすらいねえ。定職したくても何故か全部続かない。言い訳じゃないが俺の問題じゃなくて、必然的にそうなる。けど、俺は今からメシが食いたい。ななしはどうやって奢る?」

ななしはその不躾な態度も口調もちょっと響いたようだったがめげずに先ず、しっかり食事が出来るかカフェの店員に尋ねた。時計は11時。丁度これからランチタイムの準備に入る、という。次に、彼女は現在、テーブルで乾かしている財布と紙幣の中からプラスチックカードを指差す。

「さっきうっかりしてたら財布をそこの公園の噴水に落としちゃったの。それで彼ったら怒っているのよ。『お前は本当にドジな女だな』って。ごめんなさいって謝っても許してくれないわ。遅刻した上にデートを台無しにしたから奢れ、なんて言うのよ。ひどいと思わない?。私は彼に会いたくってメイクを頑張って済ませて駆け足でやって来たのに。クレジットも濡れて使えないとは思うけれど、ちゃんと支払いで試すし駄目なら免許証を担保代わりに今日置いて来週までには払いに来るから特別にランチを後払いで食べさせてくれない?」

可愛らしく頼む。男性の店員はちょっと困った顔でオーナーに聞いてくると戻り、すぐに中年のいかにも人好きの顔をしてそうな人物を従えてやってきた。ななしがもう一度、先ほどより丁寧な言葉で申し訳なさそうに話す。

「そういうことなら融通をきかせてあげよう。本当っぽいからね。紙幣も乾き始めたやつがあるし、それで払ってくれればいいよ。特別だ」

テーブルのドルを見ながらあっさりと了承される。
こちらを見てどう?とばかりに得意げに微笑むななしに悔しくなり「それでも一番良いランチメニューじゃないだろ。乾いたやつ全部合わせても」と悪態をついてしまう。
結果、運ばれてきたのは一番値段の高くはないもののサービスでデザートが付いてきた。オーナーが特別にここでも気をきかせてくれた。
「折角のデートで彼の怒りを買ったんだから、良いことが起きるようにおまけするよってオーナーから。君も男なら仲直りしてあげなよ。とってもチャーミングな彼女じゃないか」
ウェイターも妙に親切だ。こんなこと人生で一度もなかった。
ケーキに舌鼓を打ちつつ、ドナテロは信じられなかった。こっそり、このケーキにはラムシロップに隠れているけどちょっとチェリーシロップが多く使われている、と思いながら。

ドナテロはななしとメールアドレスと電話番号と実際の住所を交換した。
「もし、帰り道で携帯をなくしたら来週の日曜にこの公園の噴水に11時きっかりに来てね……来られなかったら私から迎えにいくわ」
彼は自分のついていない半生を半分くらいはななしに食事の後に話したので、しっかりななしから憐れまれ予防策をとられる結果になっていた。





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