ボディクリームを塗った。お気に入りの、薔薇の香りがほんのりとするやつだ。 甘い香りをまとわせたまま、彼女はクローゼットの中の服を片っ端から取り出して、鏡の前で合わせてみる。 お気に入りのショートブーツに、この間一目ぼれして買ったばかりのレースのワンピースは中々よく合っていて、思わず口元が緩んでしまう。これにしよう。小さく呟く。 服が決まったのなら、次は化粧だ。 ファンデーションにチーク。口紅は念入りに。 右目のまつげにマスカラを塗っている最中に、数時間後に会う約束をしている彼――ブチャラティから連絡が来た。 けれど、彼の口から出てきたのは、彼女の全く望んでない言葉だった。 「急に任務が入ったんだ。悪いが……」 その後も彼は何か言っていたようだけれど、彼女の耳にはなんにも入ってはこなかった。 なんとか口を動かし、至って平気そうな声を作って「そっか」「平気」と返事をしてはみたが、鏡に映る顔はぶすくれて酷い表情をしている。 電話が切れた途端、携帯電話を放り投げた。電話は壁に当たり、ごとごととくぐもった音を立てて床に落ちた。どうやらチェストの裏にもぐりこんでしまったらしい。でもそんなの、今はどうだっていいことだ。彼女は眉をしかめたまま、勢いよくベッドにダイブした。右睫毛だけが長いまま。 目が覚めたのは、それから8時間も経った後だ。ふて寝したのが昼ごろだったので、もう外は真っ暗になっていた。 彼女はぼんやりと起き上がり、ゆっくりとカーテンを閉め、電気を点けた。 部屋が明るくなったので気が付いたが、気に入りの服には皺が寄り、シーツには化粧の跡が薄くついてしまっていた。 それを見た途端、おさまったはずの悲しい苛立ちがまたむくむくと沸いてきて、彼女は再びベッドに倒れ込む。 枕を胸に抱き、癇癪をおこした子供のように、右へ左へごろごろと転げまわった。 ばか、ブチャラティのばか。来てくれるって言ったのに。今日は一日、一緒に居てくれるって約束してくれたのに。 とっても楽しみにしてたのに……ボディクリームの匂いだって、もう消えちゃった。 この間だって、おんなじ理由ですっぽかされたわ。これで三回目よ、三回目! どうしてやろうかしら、あの人の苦手な林檎でパイでも作って、食べさせてやろうか! 脚をばたつかせ、彼女は滅茶苦茶にわめいた。 けれど、本当はわかっている。本当に馬鹿なのは、面と向かって文句を言えない自分なのだということは。 その場では平気なふりをしておいて、後からうだうだ言うことが卑怯だってことは、わかっている。けれど、彼女はどうしても、言いたいことを飲み込んでしまう。何か不満があっても、大丈夫、と答えてしまう。彼はきっと、彼女のことを従順で口数少ない大人しい娘だと思っていることだろう。 そうして、否な気分を溜め込んだ末、こうやって一人でみっともなく暴れてしまうのだ。そうすればとりあえず溜飲は下がるがそれは一時的なもので、みじめさや自分への嫌悪感はどんどん増していく一方だ。 「ばか」 それがもはや、どちらに向けた言葉なのかも彼女はよくわからなくなっていた。シーツに付いた口紅をなぞり、ため息をつく。 ブチャラティみたいになりたい。彼女はぽつりと呟いた。 彼は優しいし、言いたいことはちゃんと言ってくれる。間違ったことをしたら、叱ってくれる。 なのに私は、子供っぽくて、みじめったらしくて……。こんな面倒くさい性格、きっと彼に嫌われてしまうわ。釣り合うわけがない……。 苛立ちは次第に悲しみに変わって行った。枕に顔を埋めて、ぶつぶつと呟く彼女の耳に、突然控えめな笑い声が聞こえてきた。 「!」 顔を上げ、振り向く。そこに居たのは、今まさに考えていた相手。 「ぶ、ブチャラティ……」 どうして? お仕事で、これないんじゃあ……。起き上がり、困惑した表情で言う彼女に、彼は呆れたように肩をすくめた。 「夕方には終わるはずだから、その後で顔を見せに来ると言っていただろう?」 「そう……だったっけ」 約束をすっぽかされたということばかりがショックで、全く聞いていなかった。 「それにしても」彼は再びフフと笑い出した。「一人になると、意外に饒舌なんだな」 「ご、ごめんさない」 「どうして謝るんだ?」 「私、一人でうだうだと……あなたの文句を」 仕方がないってわかってるのに、子供みたいにみっともなく暴れて……。瞳をまっすぐに見ることができず、枕に顔を埋めて、ごめんなさい、と再び言う。 ほんの少しの間を置いて、ベッドがぎしり、と軋んだ。彼が隣に座ったらしい。 「顔を見せてほしい」と、やさしく穏やかな声がそっと耳元に滑り込む。彼女はおとなしく、枕から顔を上げた。 ブチャラティは手を伸ばし、彼女の右目のまつげをそっと撫でた。察しの良い彼のことだ。どうして右目だけにしかマスカラが塗られていないのか、すぐに理解できたのだろう。 「寂しい思いをさせて悪かった」と彼は言った。彼女は何と言えば良いのかわからず、また俯いてしまう。 「正直、安心したんだ」 「……え?」 「何も言わないからな。君は、俺に対して」 本当の言葉が聞けて良かった。そう言って彼は微笑む。 けれど、優しくされればされるほど、彼女の気分は重くなった。 「でも、私……本当の私は、子供っぽいのよ。どうしようもなく……。わがままだし、ひねくれ者で」 「それくらいで俺の心が君から離れると?」 「……」 「どんな姿を見せられても、俺の心は君にある」 信用してほしい。真っ直ぐ瞳を見つめ、彼は言った。彼女が戸惑いがちに、けれどしっかりと頷き返すと、彼はそっと笑い、小さな体を抱き寄せる。 「いつだって、本心を言ってくれ。その方が俺も助かるし、君だって気が楽になるだろう」 「うん……」 「でも、林檎のパイだけは勘弁してほしい」 渋い顔をして言う彼に、彼女はあははっと笑った。 「どうしようかな。作っちゃおうかな」 「おいおい……」 「じゃあ、キスしてくれたら考え直す」 彼女が悪戯っぽくそう言うと、「そうだ、そんな風に素直に言ってくれればいいんだ」と彼はそっと口付けをしてくれた。 少しだけ素直に ブチャラティに初挑戦。ちゃんとそれっぽくなったかどうか。 彼は真っ直ぐに甘い台詞を言ってきそうだなーというイメージがあります。 |