別れの理由は簡単だ。私の他に女がいた。
だから力任せにハンドバッグをあいつの顔めがけて投げつけて、脇目もふらずに部屋を飛び出してきた。

それからぼんやり外を歩いて、気分を落ち着かせようと自販機で紙コップのコーヒーを買おうと思って、ああしまったと頭を抱えた。
財布がない。というよりもそもそも、バッグを持っていない。
そうだ。投げつけたんだった。数分前までは恋人だった男に。

「あー……あ」

自販機に寄りかかって溜め息を吐いた。夜の空気は冷え冷えとしていて、体が震える。
何もせずにいれば泣いてしまいそうだったから、ああもうサイテーと呟いて地面を爪先で蹴ってみたりした。

それにしても、どうしよう。

コーヒーが買えないのはいいとしても、お金が無くちゃ帰れない。
まさか、今からあの男の家に戻って「バッグ忘れた」だなんて言うわけにもいかないし。

……時間はかかるけれど、仕方ない。歩いて帰ろう。
と、一歩踏み出したところでコートのポケットが震えていることに気が付いた。
慌てて手を突っ込むと、携帯電話が着信を知らせている。そうか、ケータイはコートに入れてたんだ。

画面を見れば、上司の名前が表示されている。
暫く震えたままの電話を眺め、それから通話ボタンを押すと、のろのろと耳に当てた。

「……はい」
「ああ。すまない、こんな時間に」
「リーダー……」
「5分ほど時間はあるか?仕事の話だ」
「あ、はい。大丈夫です」

彼はいつも通りの何を考えてるんだかわからない無感情な声で、事務的なことを私に伝えた。
耳に心地良い低音で語られる、さして重要でもない仕事の話が今は何故だかひどく優しく感じられて、私は唇を噛み締める。

今は仕事の話に集中しようと思っても、不意にあのろくでなしのことがどうしても頭をよぎって、鼻の奥がツンとして仕方がなかった。
裏切られていたのだと理解した瞬間に、自分でも驚くほど急速にあの男への感情は冷めてしまったのだけれど、やっぱり、悲しいものは悲しい。
なんといったって、私は一人になってしまったのだ。


そんな、なんとも言えない感情が受話器越しに伝わってしまったのだろうか。
話が一段落したあとで彼はふと沈黙して、静かに「どうかしたのか」と訊いてきたものだから、私は思わず面食らってしまった。

「……どうしてですか?」
「何かあったのか」
「……」
「外に居るのか」
「……そうですけど」
「一人か」
「……はい」
「寒そうだな」

寒さで声が震えてしまっていたのだろうか。

「こんな夜中に、一人で、外で何をしてるんだ」
「何、って。その……」

普段は何事にも大した関心を示さないような人だから、いきなり気遣うようなことを言われた私はちょっと動揺した。

「財布、無くしちゃったんです。だから、今、家まで歩いていて……」

正確には無くしたわけじゃないけど。
本当のことを話せるほど私と彼は親しいわけでもないので、そういうことにしておいた。
大体こんなに寒くて暗くて人気もないところで、バッグもお財布も何にもない状態で「男にふられてひとりになっちゃいました」だなんて言えば、私は多分泣いてしまう。

彼が呆れたようにため息をつくのがわかった。

「……どこにいる」
「……私、ですか?」
「当たり前だ。……早く言え。すぐに行く」
「え」

一瞬、理解が追いつかずに戸惑っていると、電話の向こうでがさがさと、衣擦れのような音や靴音が聞こえ始める。
迎えにくる準備をし始めているのだと気がついて、私は慌てた。

「あ、あの。来て、くださるんですか?」
「今更断るなよ。もう部屋の鍵を閉めてしまった」

彼の言うとおり、受話器の向こうでがちゃり、と鍵の音。
私はあっけにとられて、口をぽかんと開けたまま固まった。
反則だ、と思った。なんで今日の彼は、どこまでも優しいのだろう。

そうだ。いつもは素っ気無くて冷たいくらいなのに、こんな時にこんなに優しいなんて、反則だ。

だから、開いたままだった口を動かして「ありがとうございます」と言ったら、途中で声は上ずって、両目から水が出てきた。
そうなったらもう止められなくて、私は子供みたいに盛大に声を上げて泣いた。
受話器越しの彼はいきなり泣き出した私にも、大して驚いた様子はみせない。

「……泣くのは構わんが、場所を言ってくれないか」

私はなんとか喋ろうとしたけれど、とにかくしゃくり上げることが止められなかったので、彼は何度も私の居場所を問う羽目になった。

「着く前に泣き止んでおけ。俺に泣き顔を見られるのは、嫌だろう」

車のドアを閉めて、エンジンをかける音が聞こえる。
私は鼻をすすりながら、わかりました、と、自分でも何を言ってるかわからない声で答える。

「……切った方がいいか?」
「……え?」
「電話だ。切っていた方がいいか?」
「……。いえ……」

できれば、声、聴いてたいです。

私が切れ切れの言葉でそう言うと、彼は「そうか」と呟く。素っ気無い声は、けれどやっぱり、どこまでも優しかった。




mangiabambini

mangiabambini(マンジャバンビーニ)→見かけは怖いが優しい人


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