エレベーターが停止して10分ほど経った。
一階から上に上がる途中で、急に止まってしまったのだ。夜中だからか非常電話ボタンを押しても誰も出やしない。
狭っ苦しいエレベーターはかなりの年季が入っていて、大抵は数センチ段差を作って開くし、突然止まるのだって珍しいことじゃあなかった。機械は壊れるものだから仕方がないとアパートの住人は誰一人文句を言わないし、俺も長いことここに住んでいるからこんなことは慣れっこだ。

だが、他人と閉じ込められるのは今夜が初めてのことだった。


運悪く俺と乗り合わせてしまった見知らぬ女はどうやら東洋人のようで、さっきから後ろの隅で俯き、鞄と紙袋を腕に抱えてじっとしている。

俺は取りあえず床に腰を下ろすことにした。服は汚れるが立っていても仕方ない。

「座ったら?」

女に声をかけると、彼女はゆっくりと顔を上げた。こんな事態は初めてなのだろうか。酷く不安げな顔をしている。

「言葉、わかる?」
「……少しなら」

彼女はぎこちない発音でそう答えると、ゆっくりと床に座り込んだ。床に置いた紙袋から、赤と黄のパプリカが覗いている。

「どこから来たの?中国人か?あんた」
「いえ、日本から。つい先日、来たばかりで……」
「ジャポネか。そう」
「動きませんね……」
「誰か来るのを待つしかないね。扉をこじ開けても開くこた開くけど、あれはかなり骨が折れる」
「前にもこんなことが?」
「何度もあるよ」

俺が言うと、彼女は困ったように眉をひそめた。ボロアパートを借りてしまったことを後悔しているのだろうか。
あんまり情けない顔をするもんだから、「大丈夫だよ」と言っておいた。

「何回も閉じ込められてるけど怪我の一つもしないさ。そりゃ、急いでる時は少し困るけど」

エレベーター内は薄暗く、少し寒い。
晩飯を食ってないから腹も減ってきた。

「それでも不安なら、こんなにハンサムな男と出会えてラッキーだったって思えばいい」

自分を指差して俺が言うと、彼女はようやく引き結んだ唇をゆるめ、くすりと笑った。

「そうですね。……そう思うことにします」

一応、ジョークが通じる程度はイタリア語の知識があるらしい。

「そうだ。これ食べます?」

そう言うと、彼女は紙袋の中からパンとチョコレートとクッキー、それからミネラルウォーターのペットボトルを取り出した。

「待っている間、暇でしょうから」
「ちょっとしたピクニックみたいだ」
「そうですね」

包装を剥がしたホワイトチョコレートを半分に折りながら、彼女は急におかしそうに笑い出した。

「どうかした?」
「なんだか少し楽しくなってきちゃって」
「さっきはあんなに怯えてたのに?」
「ですよね。不思議」

彼女はチョコレートの半分を俺に差し出して、尚も楽しげに笑っている。
オレンジピールの入ったいかにも甘そうなそれを受け取ろうと彼女の方へ少し近付くと、不意に真っ直ぐに視線がかち合った。
アーモンドに似た形をした目の中の、夜空みたいな黒い瞳がエレベーターの照明にきらりと光る。
それにらしくもなく見とれて思わずじっと見つめていれば、彼女がそっと口を開いた。

「……あなたとなら、またこのエレベーターに閉じ込められても平気な気がします」
「それは……光栄だな」

彼女の声に我に返り、チョコレートをかじった。

「……でも、多分もう会わない方がいいよ。ここだけの話、俺scheranoだから」

俺が言うと彼女はクッキーに手を伸ばしながら首を傾げる。

「スケ、ラ……?ごめんなさい。私、まだ知らない言葉が多くて……」
「知らないと思った。良いんだ。知らなくて」
「ちょっと待ってください。調べます」

言うなり、彼女は鞄からぶ厚い辞書を取り出した。こんなのをいつも持ち歩いているんだろうか。

「いいよ、わざわざ」
「折角時間があるんですから。知らない単語は覚えておきたいし」
「そう」
「綴り、どう書くんですか?」
「sche……」
「はい」
「……rano」

彼女の指がページを捲っている。
俺はそれを見つめ、またチョコレートをかじる。
オレンジピールがねちゃりと歯に纏わり付く。

その指の動きが止まったら、言葉の意味を知ったら。


(彼女はあの黒い瞳でどんな表情をしてくれるんだろう)





密室ピクニック







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