▼ 平山
玄関のドアを開けると、布団の上に座り込んで編み棒を動かしていた女が顔を上げ「お帰りなさい」と微笑んだ。白い布団に転がった毛糸玉の朱い色が鮮やかだ。この間から彼女は貸本屋から借りてきた編み物の本とにらめっこをして、不器用なりに懸命に腹巻を編んでいる。何でも「いつも幸雄さん胸を開けていて寒そうだから、腹巻をすれば温かいかなって」だそうだ。
「ただいま……まだ起きてたのか」
「明日はお仕事が休みだから、幸雄さんが帰るまで起きてようと思って」
「わざわざ待たなくても……。寝ていてよかったんだぞ」
「いいえ」彼女は首を振ると、手を止めて鼻を掻き、少し照れくさそうにはにかんだ「日中は時間が合わなくて幸雄さんとゆっくりおしゃべりができないから……少しだけでもお話がしたくて」
「ガキみてえだな」と言ったものの、正直に言えば彼女のその心が嬉しくてくすぐったくてたまらなかった。緩みそうになる唇を噛む。脱いだ靴を下駄箱に仕舞わずに部屋に上がるとくずおれるようにして布団の上に座った。彼女が少し眉をひそめた気がした。
「お茶、飲みますか?」
「いや、いい。……煙草吸っていいか」
「どうぞ」頷いた彼女が台所から灰皿を取ってくるころには、平山はもうすでに煙草を銜えて火を点けていた。吸えば苦味が体の隅々まで染みわたり、体から力が抜けていく。深く重い息を息を吐いて、空になった箱を握った手に力をこめる。静かな夜に紙の潰れる音は思ったよりも大きく響いた。
「幸雄さん……何かありましたか」
「ん……?」
「いつもと、ちょっと違う気がします」
お辛いこと、あったんじゃないですか。彼女は彼をじっと見て、静かに訊いた。図星をつかれて、心臓が跳ねる。「……少し、疲れてるだけだ。寝れば大丈夫だ」言いながら顔を背け、灰皿に灰を落とす。いつも通りに振る舞ったつもりだったが、気が付かないうちにこの女に違和感を与えてしまっていたらしい。
「そうですか?」
ああ。頷くが、実際は大丈夫なんてことはない。辛いのだ。辛くてたまらない。他人を名乗って牌を握る日々は、じわじわと確実に、平山の心を抉っている。
「……幸雄さん」彼女は彼のスーツの裾をそっと引っ張った。ああ、そう言えばスーツを着たままだったと、そこで初めて気が付いた。いつもは帰ったらすぐにハンガーへ掛けるというのに……。「幸雄さん。誰も見てませんし、誰にも言いませんから……だから、私にだけは、甘えてくださっていいんですよ」
「何を言って……」
「ちょっとくらいは頼ってください。その……こいびと、なんですから」
「……」
男が女に頼るなんて、そんなこと出来るわけが……平山は口の中でもごもご呟いていたが、目の前の女の微笑みがあまりにやわらかで、髪からは石鹸の、花のような匂いがやさしく香っていたものだからたまらなくなって、彼は項垂れると煙草を置き、彼女の胸に顔を埋めた。
「悪い……少しだけ、こうしていてもいいか……?」
「幸雄さんの気持ちが軽くなるまで、ずうっとこうしていていいですよ」
彼女の声はどこまでも優しい。掌がそっと、平山の髪を撫でている。幸雄さんの髪、きれいですね。月のひかりの色ですね。彼女は愛おしそうに呟いた。彼は顔を上げないまま、手探りで彼女の髪に触れる。艶やかな黒髪が、まぶたの裏に浮かぶ。
「お前の髪の方が、ずっと綺麗だ……夜の色だ」
「夜の色……ですか?」ふふ、と、彼女が息だけで笑った。「幸雄さんがお月さまで、私が夜……素敵ですね」
私たちも、夜と月みたいにずうっと仲良く一緒に居れたらいいですね。
随分子供っぽいことを言う。けれど、彼は大人しく頷いた。
灰皿の中で、ほったらかしにされた煙草がゆっくりと短くなっていく。
[夜と月]
2015/10/10