オサムちゃんを知ったときからオサムちゃんはオサムちゃんで、わたしはオサムちゃんの過去なんて全然想像できなくて、オサムちゃんにも私たちと同じような中学生時代があったはずなのに、オサムちゃんは突然オサムちゃんとして世界に存在しているのだと、ありもしないことを考える。



冬の足音が遠のいて春の気配が空気に混ざる。空はもう冬じゃないのにまだ空気が冬ぽくてスカートからはみ出した素足から体がひえていく。
花冷えというにはまだはやいのかもしれない。校舎周りの桜の木はつぼみさえまだついていない。そういえば入学してから3年間、卒業式に桜をみた記憶なんてない。

昇降口の下駄箱を見て、クラスメイトが誰一人登校していないのに気付いた。嬉しいような寂しいような、一瞬だけ胸がもやっとする。そりゃあすることなんてないし休みにわざわざ来る必要なんてないのだけれど。もうちょっとでお別れのこの学校に少しも愛着がないのかななんて思ってしまう。
少しだけ悲しんだあと、クラスメイトに変に知られないでよかった、と気を取り直して一年間履き潰した上履きを床に落とした。



職員室に向かう途中の廊下で見つけたお目当ての人物は便所サンダルをぺったらぺったら鳴らしながらいつもどおり猫背で面倒くさそうに歩いていた。

「オサムちゃん!」

「おーみょうじ」

わーオサムちゃんばか!と、思わず人差し指をたててしーっとしながら近づいた。まだ1,2年生は授業中なのに、なんで教師であるオサムちゃんがわたしよりでかい声でしゃべっちゃうんだろ。オサムちゃんらしいなぁ、なんて生徒が笑って許してしまうからこの人はずっとこのままなんだろうなぁと思う。

「なんや3年はもう卒業式まで自由登校やろ」

「だってオサムちゃん今日誕生日でしょ」

「お、覚えてたんか〜で、プレゼントは?」

「そんなんないよ」

「やったら何しに学校きてん」

「ただ感傷に浸りに来ただけだよ」

オサムちゃんはなんや寂しいわーと全然寂しくなさそうに言って笑った。オサムちゃんを見て私も静かに笑う。

「ぜんぜんお世話になんなかったけどオサムちゃんすきだったよ」

「アカンでー俺とみょうじは教師と生徒や」

「もう生徒じゃなくなるもん」

「せやな。あっという間に大人になるんやろなー」

もしゃもしゃと髪の毛を撫でるオサムちゃんは、いつものちゃらちゃらした変なお兄ちゃんじゃなくて、ちゃんと先生の顔をしていた。先生のときのオサムちゃんは、一瞬はっとするくらいやさしい表情をする。

わたしはなんだかうまく次の言葉を紡ぎ出せなくて、すごく恥ずかしいのにオサムちゃんの目を逸らせなかった。


「オサムちゃん中学生の時彼女いた?」
「おーおったおった。めっちゃ巨乳で美人で色白のが」
「うそでしょ」
「ほんまやって。オサムちゃんめっちゃすきー言うてきてほな付き合おかーって付きあってん。自慢やけどめっちゃモテたわ」

中学生時代のオサムちゃんに果たして巨乳で美人で色白の彼女が居たのかなんて知らないし、知ったからといってどうということもないけど、オサムちゃんもこの不思議な寂しさを経験したんだろうか。
自分の大切なものが少しずつ体から離れて行く感覚。体の一部が泡になって溶けるのをただ眺めているみたいなやるせなさ。

「なんや見惚れたか?この男前に」
「違うよ」

まったくオサムちゃんは、とくすくす笑った。
もう生徒じゃなくなっちゃったわたしにだって、きっとオサムちゃんは今日みたいにおーみょうじと言ってだらだらと迎えてくれるんだろう。
いくつになってもオサムちゃんがここにいて教師でいる限り、わたしはずっとずっとオサムちゃんの生徒で、わたしが生徒でいる限りオサムちゃんはわたしをそうやって迎える。


「教師って仕事はずるいよね」

少し前を歩くオサムちゃんのしわしわの上着を見つめながらぽつりとこぼす。

「若い子のミニスカート見れる以外にええことなんてなんもないで」

「さいってー」

オサムちゃんが中学生の時も、その巨乳で美人で色白の彼女と別れるのが寂しくて、家で一人泣いたり、わたしたちみたいに電話で何時間も恋バナなんてしたんだろうか。

だってなんだか信じられない。あと少しでみんなと少しずつばらばらになっていってしまうなんて。オサムちゃんにだってもう、会いたいと思ったときに会えない。


「わたしオサムちゃんみたいなせんせいにあえてよかったよ」

オサムちゃんが先生なのは、なんだかずるいと思うし、悲しいとも思うけど、それでもオサムちゃんが先生でいてくれたことが嬉しい。
だってわたしが学校を思い出すとき、たとえば教室や廊下やグラウンドや、職員室とかを思い出すとき、その学校のぜんぶにオサムちゃんが居てくれる。

「学校ってすごく特別だよ。人生のうちでこんな楽しくてわがまま言える場所もうないと思う」

「それも生徒だけやで〜せんせいは教頭の機嫌取って大忙しや」

「うちの学校に限ってそれはないでしょ」

「せやな。えーとこ配属なったわ」

ぽつりぽつりとお互いに言葉を落として歩いていく。
何気なく落としていくオサムちゃんのことばひとつひとつを、わたしは忘れないように忘れないようにと胸に刻みながらひとつひとつ拾い上げて抱きしめて歩く。

きっとオサムちゃんにとっては何気ない生徒との会話で、わたしにとっても時間とともにひとつひとつ忘れてしまう会話かもしれない。
それでも今この瞬間の、このなんでもないような会話を忘れたくないなと強く思った。


「今年も桜は間に合いそうにないなぁ」

ふと窓の外に見える桜の木を眺めながらオサムちゃんが立ち止まった。わたしも立ち止まって、まだつぼみさえつけていない桜を眺める。

「桜が咲いちゃうと、本当に卒業式ぽくて寂しくなっちゃうよ」

「そーかもしれんなぁ」

趣味の悪い帽子と、だらしない無精ひげと、よれよれのパンツと、しわしわのコートの後姿が陽の光に照らされる。

わたしはたぶん、もうこのオサムちゃんを見ることはないんだろうな、と突然思った。


卒業式の日には、オサムちゃんはひげをそってスーツを着て、ぴっしりと教師になる。
わたしの知ってるだらしなくてちょっと近寄りたくないそこらへんの変なお兄ちゃんみたいなオサムちゃんじゃなくて、わたしの知らない過去をいっぱい持っていて、わたしなんかがオサムちゃん、って声をかけるのも気が引けてしまいそうな大人の男のひとになる。
セールで5000円くらいの安いスーツでだって、一瞬でオサムちゃんはオサムちゃんから「渡邊せんせい」に変身してしまう。

今はわたしとだらだらくだらない話をして学校を散歩しているオサムちゃんが、みんなのオサムちゃんになって、みんなの渡邊せんせいになって、季節が変わったら今度はべつのみんなの渡邊せんせいになる。


突然津波のような寂しさが足元をさらって、立っていられないくらい、私をさみしさでいっぱいにしてしまう。


「オサムちゃん」

「なんや」

呼んだら面倒くさそうに振り返ってくれるオサムちゃんも、きっともう見れない。

いまの私の気持ちで、もう二度とオサムちゃんを見ることはできない。
なんて言ったらいいんだろう、この気持ちを。
どう表現したらいいんだろう、この感情を。


廊下に差し込んだ陽の光を受けて、ほこりがきらきらひらひらと舞う。
桜みたいに綺麗なもんじゃないけど、涙がこぼれそうになった。



春の塵
ありがとうさようなら だいすき

どれもいえない








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