入学式、入社式。どちらも日本は春に行われる。
四季の始まりも“春夏秋冬”
春から始まる。
「ちわ」
「おう、いらっしゃい金ちゃん」
始まりの季節とも言うべき春。俺の心は去年の冬に取り残されたままだった。
「いらっしゃい金ちゃん」
「おん」
今日も何時もと変わらずに、空いた時間を過ごす為、福屋に訪れる。そしていつも通り八恵がお茶を出し、それを飲みながら何も考えずぼんやりとするか、三味線をぼんやりと弾くかのどちらかだ。
――――そう、今日もいつも通り。
「廉ちゃん達、寮入ったんやったっけ?暫く寂しいなぁ?」
「廉造は居ない方が静かでええわ」
「そんなこと言うて、金ちゃんほんまは廉ちゃんのこと可愛くてしかたあらへんのやろ?」
「キモいこと言うな!!ホラみぃっ!!鳥肌やでっ!?」
「ふふふ」
―――いつも通り八恵は笑う。
「?おい、首んとこ粉ついとるで」
―――ただ少し、変わったことは
「っ!!」
「……」
思わず触れた首筋に、八恵が肩を震わせて、少しだけ後退った。
「悪ぃ」
「…ううん、ありがとう」
―――俺と八恵の間の僅かな距離
「…あ、さっき作った試作品、食べてみてくれへん?」
「おん、もう一杯茶くれるか?」
ニコリと微笑んで席を離れる八恵の背中を一瞥してから溜め息を吐くと、廉造の阿呆を無性に殴りたくなった。残念なことに、その八つ当たりをする相手は遠く離れた場所にいるからそれは叶わないのだが。
あの寒い雪の降った日に、キスをしてしまった以来、どうしようもない苛立ちが募るのを、ただただ知らない振りをしてきた。彼女とは恋人同士でも、それを匂わせた関係でもない。本当に雪に誘われたかのように衝動的だったのだ。自分の突然の行為に、八恵は一瞬目を丸くしていたものの、責めるわけでも、泣くわけでもなく、平然としていたから、俺はそのキスの意味を考えずにいた。しかし、ほんの僅かに空いた距離に、押さえようのない苛立ちが再び募る。
ずっと欲しくて、どんな形でもいいからと手に入れた八恵の隣というポジションを、自分の手で壊してしまった…
八恵はきっとこれからも何事もなかったように接するだろう。
無かったことにすれば、今までと同じように隣にいれるんじゃないかと考えた自分に腹が立った。
「はい、どうぞ」
「ん」
差し出された美しい菓子に、普段なら然程気にも止めずに食べてしまうのだが、思わず綺麗やなと素直な感想を洩らした。
「ほんまに!?嬉しい…これ夏用に拵えた物やから錦玉使うて作ったの」
「夏?じゃあこれ蛍か何かか?」
「ううん、コレ、御手洗祭のロウソクをイメージしたの!」
蝋燭の暖かな光がぽわぽわと浮かぶ…そんな様子がみてとれる菓子をへぇ〜と間抜けな音しか出さない口が憎らしい。暫く眺めていると食べてええよ?と八恵が心配そうに言ってから、自分が随分とぼんやりしていたのだと気付いた。
「美味い」
「良かった!!ありがとう!」
口の中に和菓子特有の甘さが広がる。
「今年は行こうな」
「え?」
「祭り。去年行かれへんかったから」
「…う、うん…!行くっ!!」
悩むのも、迷うのも俺は嫌いだ。距離が出来たならまた埋めればいい。
夏の薫りに思いを馳せる、20歳の春のこと。