ぱしゃっ、ぱしゃっ、
一歩一歩転ばぬように、人の波を気にしながら歩く。
ぱしゃっ、ぱしゃっ、
膝より下の淡い桃色のスカートの裾を、少し恥ずかしいが濡れない位置まで持ち上げて、日も落ちた浅い池を進んでいく。
中にはまだ産まれて間もない小さな子を抱き抱え歩き、その小さな小さな足をそっと池の水につける父母の姿があったり、浴衣姿で一生懸命歩く若者がいたりと正に老若男女が厄を祓おうとこの“足つけ神事”にやって来ていた。
毎年土曜の丑の日に下鴨神社の境内にある御手洗池で行われているこの神事では、罪や穢れを祓い、疫病、安産にも効き目があると言われている。
賀茂御祖神社、通称下鴨神社は世界遺産にも登録され、毎年沢山の人で賑わう祭の一つだ。
入り口で受け取った蝋燭を小さな小さな祠から火をもらい、やっとたどり着いた祭壇へ御供えする。片手はスカートを持ち上げているため、軽く会釈をして願いを浮かべる。
もう毎年も前から欠かさずこの足つけ神事をしに足を運んだ。母がいた頃は両親と、少し大きくなった時には志摩の兄弟とも来ていた。しかし母が亡くなった今、父は忙しいし、柔造が正十字学園に入学した頃は、金造が一緒に来てくれたが、金造が入学して向こうへ行ってしまった年からは、何となく一人で来るようになった。
今年は金造が帰ってきたが、今隣には誰もいない。
「八恵」
池から上がり、ハンカチで濡れた足を拭っていると、人の波に乗って柔造が片手をあげる。
「柔ちゃん」
「凄い人やな。一人か?」
「うん。柔ちゃんも一人?」
今日は制服とも洋服とも違う浴衣姿の柔造は行き交う人の中でとても目立っていて、若い女性がすれ違うたびチラチラと彼を見ていた。勿論浴衣が目立つわけではない。お祭りなのだから浴衣姿の男性だって沢山いる。
「俺は金造に頼まれてん。『八恵が一人やから柔兄ついてったって』って。すまんなぁ、こんな時にあの阿呆遅番で」
「誘ったけど一人とは行ってないのに…金ちゃんは心配症やねぇ。ふふ」
「金造の代わりにはならへんけど、足つけ終ったんなら物騒やから送ってったるわ」
「一人で祭り来てもおもろないやろ?」
帰宅する道すがら柔造は尋ねた。
すぐそこの角を曲がれば福屋はもう目の前だ。
「そんなことあらへんよ?それにお父さんや志摩のお家や京都出張所のみんなが健康でいられますようにてお願いせな」
「?俺らもか?」
「祓魔師は…いつ何が起こるかわかりまへん…」
「……」
ぽんっと乗せられた手に、俯いていた顔を上げれば、昔と変わらない優しい笑顔があった。「ありがとぉな」と柔らかく髪を撫でられる。
「でも俺は知っとるで〜中でも誰かさんのこと一番お願いしとるもんなぁ」
「…もう、いじわる」
「はっはっは!しかたあらへん。アイツは何も考えんと突っ走るからなぁ。……ほれ、噂をすれば」
「え?」
真っ直ぐ前を見れば暗い中を制服姿で走ってくる金造が見えた。私達に気づいたのか少し速度を緩めて此方に向かってくる。
「金造、お前遅番はどうした!?」
「うっ!!…暇やったからちょっとだけサボりに……」
「このど阿呆っ!!」
「痛っ!!」
態々仕事をサボって、息を切らしてまで此処にいる理由がわからなくて、驚いた。
「じゃあな八恵。金造!八恵送って仕事戻らんかったらしばくぞ!?」
「え?柔ちゃん!?」
さっさと行ってしまう柔造を見送り、金造と顔を合わせるとまだ微かに息が荒い。
「祭りは?」
「え?もうそろそろ終わりやないかな…?」
「あっそ」
この口振りからして祭りが目当てだったわけじゃないのだろう。もしかしたら心配して来てくれたのかも知れないと頬が熱くなる。
顔を反らしている彼の額から汗が流れていて、先程使用したのとは別のハンカチを取り出すと、そっとその汗を拭った。
「帰ろ?」
「…ん」
たった僅かな距離を律儀に送ってくれる彼に「来年は一緒に行けるとええなぁ」と告げれば、短く返事をした。
毎年、毎年、あの池を一歩、また一歩進む度に貴方が怪我や病気をしませんように、私には見えないものから守ってくれますようにと願う。
今年初めての蝉の音に汗が滲む夜、21歳の夏のこと。