「御体の具合は如何ですか?」
「あぁ、大分良いよ」
替えの点滴を吊るして、所長さんの顔色を伺うと、確かに蒼白かった顔色が少し赤みをおびて、意識もはっきりしていた。しかし未だに瘴気にあてられた肺のせいで、息苦しそうに胸を上下させ、時折咳き込んでいた。
「一番動かなならん私がこれでは情けないな」
「…今は無理をなさらずに…ご自分の御体の心配だけなさって下さい」
「……ありがとう」
所長さんは咳き込みながらも、力なくほんの僅かに口角を持ち上げて、直ぐに戻した。
「八百造さん入るえ」
静かに開けられた襖から女将さんと此方に到着したばかりなのか、勝呂たち三人が部屋を覗くなり所長さんに駆け寄るように入ってくる。
「八百造…!」
「お父!!」
起き上がろうとする所長さんの背中を慌てて支え、勝呂たちの顔を一人一人見ていく。思えばアマイモン襲撃以来顔を合わせていなかったが、三輪の腕以外は三人とも元気そうで胸を撫で下ろした。三輪は律儀にぺこりと頭を下げると勝呂や志摩と同じように所長さんを心配そうに覗き込んでいた。
「咳薬草茶をお持ちしますね。少しは楽になると思いますから」
「あぁ、すまない…ゲホッ…ゴホッ…!」
積もる話もあるだろうと立ち上がろうとした瞬間、視線を感じて隣に座った勝呂をちらりと覗くと、所長さんを見ていた筈の視線が此方に向けられていた。勝呂は私の左腕を凝視した後、信じられないといった様子で他の場所も確認するように見ていき、最後に目が合うと、私はどう反応して善いのか分からずに、思わず視線を反らし、逃げるようにそのまま部屋を後にした。
勝呂は私の怪我が左腕に軽く巻かれた包帯以外、全て治っていることに気づいたのだろうか。服に隠れて見えない肋を確認出来ないにしても、私は左腕も折れていた。そのことはあの場にいた全員が知っていた筈だ……
包帯の上から傷をそっと撫でると、じくじくと痛んだ。
――――――――――……
「ううわぁあああーーーーー〜!!!!」
ガッシャーン!!!
びくりと肩を揺らした。
突然泣き出したしえみに合わせたのかと思う程のタイミングで何かがガラスを突き抜け、そしてその場所からは罵声が聞こえてくる。
私は何故こうなったのか振り返る。
所長さんに渡す薬草茶を取りに行く途中、ガシャンという音と小さな悲鳴が耳に入った。何事かと部屋を覗けば、畳に転がった薬草茶が入っていたであろうやかんの前で、しえみがおろおろと挙動不審に動いていた。見かねた従業員が別の仕事を頼み、しえみは顔を真っ赤にさせて慌てて部屋を飛び出していき、次いでにその場にいた出雲ちゃんがしえみと同じ仕事を頼まれると同じように部屋を後にした。
そして今に至る――
様子のおかしい彼女が心配だったのと、同郷組の三人同様、先日の襲撃以来の再会なので挨拶でもしようかと二人の後を追ったは良いが、声をかける前にしえみが泣き出してしまった。
どうやら二人からは此方が見えていないようだ。大きな音の事も気になり出ていこうとも思ったが、完璧にタイミングを失ってしまい、仕方なくそのまま身を潜めた。話の内容は良く分からないが、しえみが強くなりたいと涙を流し続け、それを出雲ちゃんは呆れたように見ていて、何とも不安を感じる。
「…あんたにはほんと…恐れ入るわ!」
「十分強いっつーか……図太いじゃない!」
(だ、大丈夫かな…?これ……)
「図太くてふてぶてしい雑草みたい!」
「…雑草……」
「何よ……また泣くならやめてよ!?」
出雲ちゃんが困り果てる前に出ていった方が良さそうだと足を一歩踏み出す。
「二人と「私…雑草さん大好き……ありがとう神木さん。私も雑草さんたちみたいにがんばるね…!」
「はっ…?」
あまりの予想外の言葉に、伸ばした片手は行き場を無くし、私と出雲ちゃんはぽかんと口を開けたまま言葉を失った。たっぷり5秒は呆気にとられ、正気に戻った時には何だか可笑しくて、笑いが込み上げてくる。
「…………っぷ!!」
「えっ!?透子ちゃん…!?何時の間に…」
「あっはっはっは!!いや〜凄いね。強くなったね、しえみ」
「……くっ」
「…えっどうしたの!?」
出雲ちゃんの言う通り、確かにしえみは強くなった。以前の引きこもっていた時の彼女ならきっと、誰かの為に強くなりたいなどと考えなかっただろう。
一頻り笑った後、すっかり忘れていた罵声が再び耳に入り、やれやれと腰に手を当てた。
「あぁ〜…出雲ちゃんとしえみは取り敢えず頼まれてたもの持っていってあげて。私はこの騒ぎを見てくるから」
二人を見送り、騒ぎの方へ近づいていく。換気の為か、鍵が掛かっておらず、室内へは簡単に入れた。
襖を静かに開き、中を覗くと、医工騎士や従業員達がまだ続いている言い争いを止めさせるべきか戸惑っていた。
「大体『深部』は宝生の管轄やぞー!」
聞こえてきた怒声にぴくりと肩を揺らした。もしやと部屋を見渡せば、やはり嫌な予感は当たっているようだ。
部屋へ入り、静かに襖を閉める。目の前で寝ていた患者はこちらを見て、止めてくれと言わんばかりに指を指していた。そのまま指の指した方向へゆっくりと首を動かす。
「黙りよし!そもそもその前に上部の警護がザルやったら『深部』にまで侵入されたんえ違うか!?」
「ぐ、へ理屈ばっかこねよってヘビ顔のドブス共ォ!!」
昨日診察した時は閉じられていた襖が、今は開かれていて、中で静かに寝ていた筈の人達が興奮した様子で言い争っている。止めなければと頭では冷静に考えているのに、身体が言うことを聞かない。
しかし、興奮しきった二人が錫杖と蛇(ナーガ)を出したところで我に帰った。
投げられた錫杖から逃げるように蛇が此方へと向かってくる。
「うわ、うわぁぁ…!!」
「オン、バサラ、ギニ、ハラ、ネンハタナ、ソワカ」
「オン、バサラ、タラマ、キリク、ソワカ…行け」
身動きの出来ない魔障者へ突進してくる蛇の前に勝呂、三輪、志摩の三人が立ちはだかった。印を組んで何とか食い止めた勝呂達と同時に魔障者を庇うように伸ばされた無数の千手観音の腕を解くと、もう何本か別の方向へ伸ばされた腕を辿っていくようにゆっくりと振り返る。
「何やこの腕ぇ!?うぉっ坊!!」
千手観音の腕は此方を見て目を見開いている二人の腕に巻きついていた。もう既に戦闘の意思がないと確認すると印を解く。
「……透子…」
「………っ!!」
ぽつりと彼女から呟かれた名前に目の前の男は更に目を見開く。
「久しぶり、蝮ちゃん……柔造」
「透子…!?なんでここに…」
「二人とも相変わらずやねぇ…」
横で「あ、キレてる」と言う志摩の声を無視して、柔造の言葉を遮った。
「えぇ大人が何してはりますの?此処には魔障者が居るの知ってます?あぁ…あんたらも魔障者やったか」
怖いくらいつらつらと言葉が出ていく。口内が渇いて気持ちが悪いが、それでも顔だけは必死に平静を保とうとした。
「敵に狙われとるって時に内輪もめ起こしとる場合か!!」
後少しで怪我人が出るところだった。
勝呂が怒鳴ると私は息を大きく吸って、何とか落ち着こうと呼吸を調えた。若干の怒りや戸惑いがぐちゃぐちゃになって心臓が大きな音をたてて動いている。
それでも蝮ちゃんは勝呂の父である和尚に直接言われなければ聞けないと言い捨てる。
そのやり取りをしている際にも未だに感じる視線が痛くて、気づかないフリをして視線を泳がせていると何時から居たのか、何故か西瓜を持った燐が端に立っていて、彼の何時もと変わらない表情に、落ち着かなかった気持ちが少し和らいだ。傷は直ぐに治ると分かってはいても、あれだけ酷い戦いだったのだ…
……あれ?
「……坊…!」
「…っ!勝呂!?」
何かが引っ掛かり、一瞬飛びかけた意識が志摩の声によって呼び戻されると勝呂は一人立ち去ってしまった。しえみ同様、様子がおかしいような気がして無意識に後を追おうとする。
しかしそれは叶わなかった。
先程まで置物のように動かなかった柔造が、私の腕を掴んでそこにいた。掴まれた所から熱が伝わり、初めてまともに交わった目線に心臓が跳び跳ねる。
「…離して…………っ!?ちょっ…」
なるべく低く声を出したが、柔造は何も言わずに私の腕を引いて部屋を出ていき、振りはらおうと力を入れるがびくともしない。私は最後に見た時よりも広く逞しくなった背中を必死で追うしかなかった。
すれ違う人達が呆然と見るなか、やがて人気のない物置のような部屋に腕を引かれ、彼は後ろ手に襖を閉じた。
「…な、に?離して…」
言葉通り腕から離された手はそのまま少し下がって私の手を包んで、思わず息を飲んだ。柔造の親指が確認するように私の手の甲を撫で、きゅっと強く握る。彼の少し冷たい手とは反対に、私の手はとても熱い。
「透子…夢やなかった…」
背中に回された腕に引き寄せられ、柔造が私の肩に額を乗せる。柔造は私を抱き寄せたまま、ずるずると襖に背中を合わせ座り込むと、私も自然と座り込む形になってしまった。逞しい胸を手で押して離れようと訴えるがぴくりともしない。
「止めて…離してっ!!こんなところ見られたら困るの柔造でしょ…!?」
時期当主のこの人が、こんな人気のない所に女を連れ込んでたなどと噂がたってしまったら……
もしかしたらもう決まった人だっているかも知れない。自分で考えたことに泣きそうになりながらも必死で拒絶する。
「何でや!?好きな女抱き締めたらあかんのか!?」
「っ…好き、って……貴方とはとっくに終わって…」
「だからなんや!?終わりを決めたんはお前や…」
更にきつく抱き締められて、触れた場所から広がる体温が温かくて、自然と涙が溢れそうになる。
まだ学生だった私には小さいながらも夢があったし、結婚なんて想像も出来なかった。ましてや志摩家の次期当主の嫁など考えられなかったのだ。彼が背負っている物が大きすぎて、勝手に恐れて、自信がなくて…そして逃げた。
そんな女を彼は恨んでいるだろうと思っていた。彼に拒絶されてしまったらと思うと怖くて、未だに想ってはいても、会うことは出来なかった。
しかし今、彼の腕の中にいて、彼は私を恨んではいなかった。
「俺はまだお前が好きや…」
堪えきれなかった涙が柔造の浴衣を濡らしていく。
「…ふっ…う」
「透子…」
柔造は私の肩に押し付けていた額をあげて、私の頬を伝う涙を親指で拭った。そしてその大きな手をそっと頭の後ろに回してもう一度引き寄せて、私の涙が止まるまで抱き締め続けた。
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