『さぁおいで…』











『我らと契約を交わそう』











梟の鳴く暗闇に包まれた森の中、夜目の効かない私は一人立ち尽くしていた。
何者かによる声は森に反響しては耳に届いているのに、声の主の姿は闇に紛れているのか目で捉えることが出来ない。


不思議と恐怖感はなかった。


何も感じない。感じられないかのようにただただ立ち尽くし、じっと得体の知れない何かを待っていた。


ふと様子がおかしいことに気がつく。
動かすことも儘ならず、包帯で被われていたはずの左腕は傷ひとつなく痛みも全く感じない。それどころか身体中の傷や痛みが一切ない。そこまで考えて自分が何故こんな場所にいるのか、あの声は誰の声なのか、これは夢ではないかという考えに至った。夢であるなら早く覚めて欲しい…現実ではないはずのこの気味の悪い空間に吐き気さえ覚えた。


“ここから出して”


声に出したつもりだが、空気が震えることはなかった。


『お前は知っているはずだ…眠りから醒める方法を…』

“醒める方法?”

『さぁ…喚べ…!今こそ覚醒の時…!』






“   ”











「…っ!」


勢い良く起き上がるとこめかみに玉のような汗が一筋流れた。呼吸でも止めていたかのように動悸が激しく息も荒くなっていて、まだ薄暗い中、ここが懐かしい自分の部屋であることを思いだして安堵の息もらす。


「…痛っ……あ…アァッ…!!」


突然、左手首に激痛が走った。火傷したかのように熱く、熱を持つそこは一瞬ではなく継続的な痛みに巻き付けていた包帯をスルスルと外していく。徐々に空気に晒されていく左腕を痛みを耐えながら必死に包帯をほどいていくと、痛みを感じる場所である左手首の包帯に血が滲んでいた。しかし、奇妙なことに、血は線を引くように徐々に徐々に滲んでいき、痛みもそれに合わせて蠢いている感覚に不気味さを覚え一気に包帯をほどいた。
そこは何かで引っ掻いてみみず腫のように腫れ上がり、血が滲んでいた。いや、血が滲んでいく。
傷は線を描くようにゆっくりと血が滲み、腫れていき、それに伴い激痛が走り、額から汗が吹き出す。


「あ、痛っ…うぅ……ッ!!」


ゆっくりゆっくりと浮かび上がる何かに恐怖と痛みが絶え間なく続き、
それは5分くらいだったのか、はたまた30分くらいだったのかはわからないが、痛みに耐えるため左腕をきつく押さえ、声が漏れないよう掛けていたシーツを手繰り寄せ顔を埋めていた。


やっと痛みが和らぎ、押さえていた部分を離すとドク、ドク、と脈を打つたびにじわじわと痛みだしていた。
今度は顔をシーツから離すと、一瞬息が詰まった。


「な、に…これ…」


手首には血で真っ赤に滲んだ星型(ペンタクル)が浮かび上がっていた。


悪魔の仕業だろうか。
背中に冷たいものが走り、ベッドから飛び起きると鞄の中から使えそうな薬草や医療品を取りだしていく。その一つから聖水と書かれた小さな小瓶の蓋を器用に口で開け、箪笥から取り出した一枚のハンカチを口に含み噛み締めると小さく息を吸った次の瞬間、傷口に聖水を回しかけた。


「――――ッ!!!」


口からハンカチを出して、薬草を煎じたものが入っている軟膏を塗り、ガーゼで固定し包帯を巻いていく。

そこまでしてやっと気がついた。

寝るまでは痛みを感じていた左腕が全く痛みを感じない(正確には今出来た傷以外だが)。しかも肋や頬の傷まで完治しているのだ。レントゲンを撮らなければ正確にはわからないが、折れた左腕も完治しているということなのだろうか?

理由もわからず呆然と朝を向かえるしかなかった。













「おはようございます。正十字騎士團日本支部から来ました八坂と申します。此方の所長に謁見願いたいのですが…」


あれから朝一でX線写真を撮りに病院へ向かったが、やはり骨折した筈の左腕は綺麗に治っていた。
その足で京都出張所を訪れ、昨日の今日だけに出張所内は慌ただしく、人が忙しなく動いている様子を伺うと、目の前を通りすぎようとする人を捕まえて、何とか挨拶をした。

「日本支部から!?それはご苦労様で。しかし申し訳ないが所長は今此処にはおりまへんのや」


忙しいからか、全く怪しむ態度を見せない相手に、此方に連絡がいっているかどうかわからずに少なからず不安だった気持ちが少し和らいだ。


「…はぁ、ではどちらに?」

「虎屋っちゅう宿で療養中です」

「そうですか。お忙しいところありがとうございました」


療養中と言うことは、所長は今回の事件に直接関わったのだろうか?
兎に角、幸いにも聞き覚えのある旅館を目指して再び歩き出した。





―――――――………




「どうやら“右目”の方にも一悶着あったようです…これは由々しき事態ですよ☆」


無事に人質にされていた子供をオカーサンの下に届けた直後にメフィストを連れて、シュラが戻ってきた。“左目”はどうやら盗まれたらしいし、“右目”も何かあったらしい。
正直良くわかってねーけど、大変だってことは俺にもわかる。


「とにかく、すぐ“左目”奪還のため精鋭部隊を編成し、追跡せねばなりません。奥村先生…貴方にも加わってもらいます」

「僕…ですか?」

「ええもちろん。まだ敵の目星がつかない以上、直に接触した貴方にも作戦に参加していただきたい。実力も申し分ないですしね」

「…わかりました」

「あぁそうそう…八坂先生には一足先に“右目”のある京都へ向かってもらいました」

「「「……っ!」」」


透子…

雪男の手は拳を握り苦い顔をしていた。シュラもメフィストを睨むように眉を寄せていた。透子とはキャンプ以来顔を見ていない。俺のせいで皆を…透子を傷つけてしまったから雪男も…
俺が弱いから。







―――――――……




「ごめんください」

「は〜い」


出張所からさほど遠くない距離に虎屋はあった。


「正十字騎士團日本支部から派遣されました。八坂と申します。此方に所長がいらっしゃると出張所の方から伺ったのですが」


忙しそうに出てきたのは仲居が着ているような着物とは違い、落ち着いた上品な色合いの着物で、それだけでは少し地味に見えてしまいそうだが、帯や帯留めに華やかなデザインのものを着付けていて、とても素敵な佇まいの方だった。
見た目からしてここの女将なのだろう。


「遠いところからおいでやす。支部長さんからお話は伺ってますよ。でもねぇ、今所長さんは床に臥せってはりますから…」

「では所長の代わりに指事を出している方を呼んでいただけないでしょうか」







部屋に案内され、暫くすると襖が開かれた。そこには多少皺が増えたような気がしたが、それ以外は何一つ変わらぬ姿があった。独特な祓魔師の制服を纏い、綺麗に剃られている頭には後ろから額の辺りまで刺青のようなものが伸びており、僧にしては少々威圧的に見える。


「遅なって申し訳ない」

「いえ、…お久しぶりです。お元気そうで何よりです、叔父様」


明陀宗僧正血統の一つである宝生家当主、宝生蟒。

そして私の母の弟にあたる蟒叔父様は、幼き頃にお世話になった恩人だ。


「やはり透子やったか。名前聞いてそうやないかと思ったんやが、なんせ最後に会うたのが随分昔やからなあ。堪忍な」

「いえ、挨拶が遅れて…この度支部長直々に此方へ応援に行くよう派遣されました。私の他にも優秀な祓魔師と候補生が此方に派遣される予定です。」

「それはありがたい。透子は優秀な医工騎士と聞いた。どうか力を貸してくれ。」

「はい!」

「早速で申し訳ないが所長を診て貰えないやろか」








廊下を伯父様の後を、奥にある部屋まで着いて歩いていく。旅館や寺のような日本特有の建物とはどうしてこうも摺り足で歩きたくなるのだろうか。古来より着物を着てきた種族である血のせいだろうか。それとも静寂な雰囲気を壊したくないと本能的に思うからだろうか。

しかし今はその静寂な雰囲気はなく、あちらこちらからパタパタと慌ただしい音が聞こえ、行く途中の部屋には何人もの人が床に臥している様子が伺えた。






「八百造さん入るえ」


襖が開かれた先には広い部屋に一つだけ布団が敷かれ、点滴を繋がれた男性が咳き込みながら寝ていた。


「みっともない姿で申し訳ない。所長の志摩や。」

「(志摩…)」


起き上がろうとする所長を制するように手を前にだし、布団の横に座る叔父様の横に私も正座した。


「姪の八坂透子です。」

「日本支部から参りました。祓魔塾で講師をしています八坂と申します。」

「おぉそうか。大きなったなぁ。覚えとらんかも知れんが会うたこと…ゴホッ…」


反対側に回り込んで左腕をとり脈を測る。

少し体温が高い、脈も速いし…

担当している医師に様子を伺ってから薬草を用意してもらおうと考えていると自分の手首を押さえている手を覗いていた八百造が口を開いた。


「支部長から連絡が入った時、お前さんがかなり怪我してはると聞いとったが…」


八百造が見る限りでは左手首に薄く巻かれた包帯しか、怪我らしい怪我が見つからないことに不思議に思ったのだろう。
今朝起きた奇っ怪な出来事を思い出して、傷口がじくじくと痛む気がした。


「大袈裟に言っただけですよ。私はこの通り問題ありません。詳しいことは叔父様から伺いました。私は負傷者の看護に当たらせてもらいます。」

「よろしく頼む…そういや蟒んとこの娘達とうちのせがれ二人も魔障にやられてな。仲ようしとったやろ?」

「!?」

「蝮達は症状も軽いさかい大丈夫や。後で顔出してやんなさい」


覚悟はしていたが、仕事をするために来ている立場から、半ば強制的に忘れようとしていたため、複雑な気持ちで部屋を後にした。








それから半日が経ち、あっという間に昼過ぎになっていた。あれからパタパタと動き、一人一人を診察していった。
所長以外は比較的みな軽度だが、やはりまだ魔障を受けてから日が浅いため顔色は良くないようだ。
明陀の人間は医工騎士が少ないのか、日本支部からの応援がまだ派遣されない今、やはり人手不足だ。

昼の休憩を軽く済ませ、再び戻った頃には患者の大半は落ち着いた様子で眠りに就いていた。外の暑さと苦しさからか、汗をかいている患者に、旅館の仲居達がせっせと汗を拭っていた。



すると一人の医師が話しかけてきた。


「八坂さん、念のためあちらの部屋の患者も診ていただけませんか?」


「はい、わかりました」


後についていったその部屋には数人分の布団が敷かれていた。静かな中は皆寝ているようだ。


「ここには志摩と宝生のご子息が寝ておられます。では私は他の者を診てまいりますので。」


今何て言った!?


さらりと言い残して去っていった医師に、一人目眩がした。
心臓がばくばくと音をたて、どうしようかと考える頭は酷く混乱していた。
起こさないようにそおっと覗きこんでみると、その布団の主は蝮そっくりだが少しあどけなさが残っていたため、青か錦のどちらかだろうと一先ず息を吐いた。
その先二つの布団からは良く似た顔が並んでいたため、こちらは宝生家の娘達が寝ているのだろう。

と言うことは…

向かいに敷かれた二つの布団。手前には布団を足で蹴飛ばし盛大に鼾をかいている金髪頭が見えた。その隣は私から背を向けて寝ているので顔が見えないが、その大きな背中や短髪の黒髪は決して見誤ったりはしない。

静かに布団の合間を進んでいく。
その間チラリと宝生の方を横目で見れば、真ん中に寝ているのが蝮のようだ。美しく伸ばされた白に近い銀髪、白い肌、この距離から見ても美しくなったとわかる。
そして、音をたてないようにそっと振り向く。少し汗を滲ませて、腕を枕にして静かに寝息をたてている人物に鼻の奥がツンと痛くなった。体つきががっしりして、顔も大人の男の顔になっていた。思い出の中の人で間違いないのに、別の人のような気もして、何だか不思議な気持ちだ。
起こしては駄目だと頭の中で訴えているのに、体は勝手に近づいていく。


敷かれた布団の横に膝をつくとその綺麗な顔を見つめた。良く見たら顔色が良くない。額に浮かぶ汗を持っていたタオルハンカチで軽く拭う。

熱があるのだろうか?額に手を当てようとして、一瞬躊躇した。伸ばした手を一度引っ込めて、膝に手を置く。

もし彼が起きたとして、私は何て言えばいい?久しぶり!元気だった!?…いや、これは違う…仕事で来ただけだから!…これじゃあ自意識過剰…そもそももう私のことなんて気にしてないかも知れないのに…


「ん…」


身動ぎをする相手に肩がびくりと揺れる。

起きる様子はないが具合の悪そうな表情に、私はいったい何をしているんだろうと息を吐いた。今はそんなことを悩んでいる場合ではないと思った。私は医工騎士だ。今すべきことをしようと手首をとって脈を測る。



すると、目の前の人物…柔造の肩が小さく揺れ、うっすらと瞼が開かれた。
心臓が煩くて周りの音がうまく拾えない。



ぼぉっとこちらを見つめる瞳には力がない。やはり具合が悪いのだろう。脈は落ち着いていて、熱も微熱程度なのでまだ怠いかもしれないが、この分だとすぐに良くなるだろう。手を布団の中に入れてやり、もう一度額の汗を拭く。


「……透子…?」

「…ゆっくり寝て」

「…また…夢、か…」


そういうとまたすぐに眠りについた。


「夢だよ…」









他の四人も順番に診ていき、皆そうとう辛いのか目覚めることはなかった。最後に仲居さんが持ってきてくれたタオルを桶に入った水につけて絞っていると、勢い良く金髪の彼が起きた。


「んん〜良う寝た。腹へったわ…」


病人のくせによく起き抜けでよくそんなこと言えるなと感心しているとこちらを見た金髪の彼はきょとんとした顔で尋ねてきた。


「アンタ誰や?」

「しっ!!みんなまだ寝てるから。ご飯食べれそう?持ってきてもらおうか?」

「おん」


しかし寝顔を見た時も思ったが、志摩家はみんな父親そっくりだな…
まじまじと見すぎたらしい。金髪の彼は眉を上げて不審がった。


「あぁ、ごめんなさい。あまりにも志摩…廉造くんにそっくりだったから」

「なんや、廉造知っとるんか?」

「その廉造の先生」

「ふーん」


まぁお兄さんも良く知っておりますが…



「今ご飯持ってくるね」

「ええわ、なんや寝過ぎたから自分で行く」


そうして彼は部屋を出ていった。
私も桶とタオルを持って部屋を後にし、それからは薬草を煎じたり、点滴を交換したり、様子を診ながら処方する薬草を変えたりそれなりに忙しい一日を送った。

途中シュラと連絡をとり、どうやら明日の午後には応援が来れるらしい。向こうもバタバタしていて大変そうだが、今はシュラが傍に居てくれる方が心強い。
朝起きた出来事に不安を抱きつつも、一人でも病人が減るように看護に当たった。

























言い訳は日記にて








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