酔い潰れた幼なじみを担いで、ゆっくりと家路についた俺は、自宅前に着くなり、大きく息を吐いた。
然程変わらない体格である円堂を運ぶのは、やはり辛い。
一旦その場で不安定な姿勢を正してから鍵を探し、重々しいドアを開ける。

「……ただいま」

一人暮らしの為当然だが、静けさに包まれたアパートの一室で返ってくる言葉はない。

「ほら、円堂」

後ろの円堂へ声をかけ、入るように促すと、ふらふらと覚束ない足取りで円堂は靴を適当に脱ぎ、部屋へと上がった。
そういえば、円堂がこの家に来るのは初めてだな、と今にも倒れそうな歩みに不安になりながら、その姿を見つめる。
いくつも部屋があるわけではないし、案内などいらないにしろ、好き勝手されても困る。けれど、相手は円堂なのだから仕方ない、と言ってしまえばそれまでだった。

「……円堂、水…って、そこは俺のベッド…!」
「んー……」

とりあえず、水を飲ませる為に一度台所へ行ってコップに水道水を注いでから部屋に戻ると、俺のベッドに横たわる円堂がいた。
普通、他人の家にきていきなりベッドに倒れ込む奴があるだろうかと呆れるが、酔っ払いには何を言っても無駄だ。

「ん〜……?」
「……水飲めよ、ほら」

仕方なく、うーんと唸りながらベッドを占領する円堂の上半身を起こして、水の入ったコップを渡す。
しかしそれは、円堂の手へ渡ることなく、俺の掌から滑り落ちた。

「え、円堂…!?」

ガラスのそれが床で音を立てたのと、腕を引っ張られ、円堂の胸に納まったのはほぼ同時だ。
抱きしめられているような格好で、そのままベッドへと倒れ込む。
衝撃に目を見張ると、すぐ近くに円堂の顔があった。
俺は慌てて、円堂の上から退こうとするが、背中に回った力強い腕は離そうとしない。

「おいっ円堂、お前――」

相手を間違えてるだろ。
そう言葉を紡ごうと開いた口は、意味を成さなかった。
円堂が、俺の唇を塞いだからだ。
初めは、一体何が起こったのかよく分からなくて、円堂の顔と、円堂の匂い、それしか認識できなかった。

「んっ…!んぅ…は、ぁっ」

いつの間にやら、俺の身体は反転させられて、円堂に組み敷かれる。
隙間からぬるりと侵入した舌が口内を舐め回した。
俺は有り得ない事態にフリーズしそうな思考を精一杯働かせて、どうにか円堂を押し退けようと試みるものの、強い腕に抱き締められた身体はぴくりとも動かない。

「ん、っは……な、にんん…!」

一瞬唇が離れた隙に発したそれはまたしても言葉にならず、再び塞がれ、口付けはさらに深くなる。
歯列をなぞって、辿り着いた舌先を絡め取り、きつく吸い付かれる。
俺は全てを奪い去るような激しいキスに、酸欠になりながら、円堂の唇と舌の感触を感じた。

「っ…はぁ…、…んっ」

力で円堂に敵わないことは百も承知だが、それでも抵抗する力は緩めずに、円堂の身体を引き離そうと力を込める。すると、暫くして満足したのか、円堂はゆっくりと唇を離し、口付けを解いた。
どくん、どくん、と五月蝿く鼓動を刻む胸が酸素を欲して、息を大きく吸い込む。
不意に視線を感じ、円堂を仰ぎ見れば、そこにあったのは、円堂の熱っぽい眼差しだ。

「え、んどう……?」

今まで見たことのないその表情に、俺は抵抗を止めて、真上にある円堂の顔を見つめ返した。
俺を映す虚ろな瞳と、視線が絡み合う。
何か言いたげに開き、しかし躊躇っているように何の音も発しない円堂の唇。キスの名残で唾液のついたそれと、隙間から覗く舌が艶かしく光る。
何を言い出すつもりなのかと、俺は息を飲んで見守った。

「……風丸」

漸く、一言。呟かれたのは俺の名前だ。
円堂が、俺の名を呼んでいる。
遠い地に残してきた最愛の嫁の名前ではなく、他の誰でもない、確かに俺の名を呼んだのだ。

「風丸、風丸……かぜまる」

俺は、今度こそ何も考えられなかった。
風丸、と幾度となく繰り返される円堂の声が。呼吸を奪うようなキスと、壊れてしまう程の強い抱擁が。手に入ることなど決してないのだと思っていた温もりが、そこにはあった。
抗える、わけがない。
ずっと欲しかった、ずっと夢見ていた。
円堂に抱きしめられ、溶けるような甘い口付けを交わす。何度、そうなることを思い描いてきただろう。
それが今、現実となって自分の身に起きている。有り得ない。そう思うのに、柔らかい感触も、触れた箇所から焼けてしまいそうな熱も、全て本物だ。

「かぜま、る……お、れは……」
「円堂…?」
「ん……」

そして何の前触れもなく、急に全身の力を抜いて、俺の肩に頭を預けた円堂を不審に思うと、耳元からは規則正しい寝息が聞こえてきた。どうやら、眠ってしまったらしい。
何かを言いかけて、がくりと気を失ったように夢の世界へ旅立ってしまった円堂は今、何を伝えようとしたのだろう。
風丸、俺は。
その先に続く言葉は一体何なのだろうか。
風丸、風丸、と切なげに呼ばれてしまえば、胸が苦しくて、どうしようもなく泣きたくなった。
相手は酔っぱらいだ。しかも、円堂だ。きっと、意味なんてない。俺の名を繰り返した意味なんてありはしない。
そう何度も自分に言い聞かせる。けれど、紡がれたそのたったひとつの名に、俺は期待してしまいそうだった。

「なぁ、円堂……お前は今、何を言おうとしたんだ…?」

気持ち良さそうに眠る円堂に、俺の声は届かない。
長い間、心の奥底で封印し続けた円堂への想いが、次から次へと溢れ出す。
好きだ、円堂。好きだ。
何年経っても変わらない感情は、忘れようと努力しても、消すことなどできなかった。
十年以上経った今でも、円堂を好きだと全身が訴えている。
ずっと伝えたくて、伝えられなった言葉を、俺は初めて口にした。

「……好きだ、円堂」

円堂の吐息が鼓膜を震わせ、身体中を甘い痺れで満たされた。
ずっと望んでいた、けれど永遠に手に入れることは赦されないはずの最も大切で愛しい親友の温もり。
それは、俺にとって何とも代え難い幸福そのものだった。





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