「鬼道さん、大丈夫ですか?」
そっと触れた彼の額は、じんわりと汗が滲んでいて、熱かった。
俺の掌との体温差に、鬼道さんは気持ち良さそうに目を細める。
「まだ、熱が下がりませんね…」
「ん……」
目を覚ましたばかりの彼は、ぼんやりとした視線で周囲を見回す。
まだ熱の下がる気配はないけれど、眠る前よりも幾分楽になっているようだった。
「りんごすってきたんですけど食べれます?」
「……少しなら」
無駄に広いキッチンを借りて、お見舞い品として持ってきたりんごを鬼道さんが食べやすいようにすっておいた。少し時間をおいてしまったせいで薄い黄色に変色したそれを鬼道さんに見せると、表情を微かに綻ばせる。
「すまないな、佐久間」
「いえ、それよりも早く風邪を治してくださいね」
「あぁ、わかってる」
いつも眉間に寄せた皺が取り除かれて、穏やかな表情で俺を見上げる鬼道さんに、ひどく幼い印象を抱いた。
これも、俺の知らない鬼道さんの素顔の一つなのだろう。恋人であるのに、まだまだ知らない彼の表情を見つける度に、もっと知りたくなる。
「ところで、本当に行かなくて良かったのか学校は……サボってきているんだろう…?」
「俺のことは気にしないでください。鬼道さんが風邪で寝込んでるっていうのに、のんびりと授業なんて受けてる場合じゃありません!」
俺を気にかけてくれる鬼道さんの優しさに喜びを感じながらも、いかに心配しているかを熱弁した。
体調管理もしっかり行き届いていて、滅多に体調を崩さない鬼道さんにしては珍しく、風邪をこじらせてしまったらしい。朝、学校を休むとだけ書かれた短いメールを受け取った俺は、家を勢いよく飛び出して学校にも向かわずに、鬼道さんの家に直行した。そして、今に至るというわけだ。
「鬼道さん、起きれますか」
「あぁ……」
彼の背に腕を回して支えつつ、ゆっくりと鬼道さんの身体を起こす。
安心しきったように身を任せてくれるというのは、普段の彼では有り得ないことだけに、嬉々として彼の世話を焼いた。
今ならば、このすったりんごも俺が食べさせてあげることができるかもしれない。きっと何の躊躇いもなしに、受け入れてくれることだろう。
そう思って、スプーンで掬ったそれを鬼道さんの口元へ差し出してみた。
「はい鬼道さん、あーん」
「ん……」
予想通り、特に嫌がることもなく、ぱくりとスプーンを口に含んだ鬼道さんに、俺は軽い感動を覚えた。
あぁ、なんて幸せなのだろう。
風邪で辛い思いをしている彼には申し訳ないが、そう思わずにはいられない。
咀嚼し、飲み込んだのを見計らって、さらにもう一口差し出せば、また同じように口を開ける。
まるで雛鳥に餌付けしているような気分だった。
「……おいしかったですか?」
「あぁ……ありがとう、佐久間」
ふわりと微笑んだ笑顔にどきりと胸が高鳴る。
元々あまり食欲のなかった彼の為に、少量しか用意していなかったそれはあっという間に鬼道さんの胃袋に納まった。
どうやら見た目程、身体の調子は悪くないのだろう。先程よりも、表情がだいぶすっきりとしている。あとは熱が下がるのを待つばかりだ。
「あぁ、そういえば源田達に連絡しないと……」
「?」
「あいつらも心配していましたから…」
「……そうか、悪いな」
鬼道さんの看病に行くと源田にメールをした折、様子を知らせろとどこから情報を得てきたのか、サッカー部のほぼ全員から同様のメールが届いた。
相変わらず、鬼道さんは色々な奴から慕われていると少し嫉妬してしまうが、今更気にすることでもない。思っていたよりも体調が良さそうだから安心しろ、と手早く本文を打ち、サッカー部員達に一斉送信した。
「……なぁ、佐久間」
「はい」
ディスプレイ画面に映った送信完了の文字を見てから、名前を呼ばれて返事をすると、何やら気まずそうな顔をしている鬼道さんと目が合った。
「いや、やっぱり何でもない…」
何か言いかけた彼は、何も言わずに口を噤んでしまう。
どうしたのか気になったけれど、言い難そうに目を逸らしたので、自分からは何も聞けなかった。
「そうだ、薬飲まないといけませんね!」
「あぁ……」
「じゃあ俺が取ってきます。薬、下にあるんですよね?」
「そ、うだが……ちょっと待て、佐久間」
「え、……っ」
薬を取りに行くのに立ち上がった俺を、鬼道さんの腕が引き留めた。
潤んだ赤い瞳に、上目遣いで見つめられて、鼓動が急に速さを増した。
鬼道さんを見ていると、なんだか変な気持ちになってしまう。それはそれでいつものことなのだが、熱に浮かされた彼は、頬も火照っていて、表情もどこか虚ろだ。
今思えば、鬼道さんの姿はまさに情事中のそれとほとんど変わらなかったのだ。
「佐久間…?」
「うっ」
不思議そうにこちらを見る彼は、どうすればいいのか分からないくらい、反則級に可愛かった。それも、思わず身体が反応してしまう程に。
病人を前にして、俺は何を考えているのだろうか。
どうにか欲望を振り払おうとかぶりを振って、脳内に数式やら公式やらを並べてみるが、効果はなかった。
俺の心の葛藤など知る由もない鬼道さんは、ふと寂しげな表情で言葉を紡ぐ。
「薬なら、後で飲むから………今は傍にいてくれないか…?」
頭の中で、ぷつんと何かが切れる音がした。
病気や風邪で床に臥せっていると、時たま何となく心細く、人恋しくなる時がある。それは鬼道さんも変わらないようで、俺の手に恐る恐る触れてきたのだが、はい、もう無理です。絶対無理。
「き、きどうさん…!」
「え、?さく、んん…っ…!」
考えるよりも先に身体が動くというのは、きっとこういうことを言うに違いない。
駄目だと分かっているのに止められなくて、気が付けば俺は華奢な身体を引き寄せて、口付けていた。
我慢できずに奪った唇は、いつもより熱くて、しっとりとしている。
酸素を求めるように口を開いた隙をついて、口内に舌を差し込めば、俺を制止しようとして胸に押し付けられていた彼の掌に力が込もった。
「ふ、はぁ…っ佐久間、風邪うつる…んん…」
「は、っ……大丈夫です、むしろ俺に移しちゃってください。鬼道さんの風邪なら大歓迎です」
「ん、ばか…っ」
ああ、どうしよう。鬼道さんがものすごく可愛い。
そろりと忍び込ませたそれで口内を舐め回し、舌を絡めると、抵抗を諦め、たどたどしくはあるが、ちゃんと絡み返してくれる。より口付けを深くして、俺は鬼道さんの唇を思う存分堪能した。
ところで、粘膜感染という話をよく聞くが、本当の話なのだろうか。この場合風邪が俺に移るというのは置いておくとして、気持ちよくなって、そしてさらに彼の風邪が治るというのなら、一番良い方法なのではないだろうか。
すっかり理性の効かなくなってしまった頭では、そんなことを考える。
「ふ、ん…はぁ……さ、くま、ぁ…」
漸く唇を離して、息を整えようと呼吸を繰り返す鬼道さんの瞳は、生理的な涙を溜め、とろんと蕩けきっている。
俺は、衝撃を与えないよう彼の身体をそっとベッドへ押し倒した。
「……鬼道さん、嫌だったらちゃんと嫌って言ってください」
「ぁ……っん、はァ…!」
寝間着の隙間から、手触りの良い敏感な肌を撫でる。鬼道さんは、ひくりと身体を震わせて甘い吐息を溢した。
声、息遣い、視線、彼の全てが俺を煽り、どうしようもなく欲情してしまう。
相手は、病人だ。なのに、俺の身体の熱は治まってくれない。
だから、せめて鬼道さんが嫌だとはっきり拒絶してくれれば、この衝動を抑えられる気がした。
けれど、何かを求めるように俺を仰ぎ見たまま、鬼道さんは何も言ってはくれなかった。
「鬼道さん……しても、いいですか?」
どうか、彼に無理をさせない為にも、嫌だと言ってほしい。
自分では抑えることができないのだから、彼の言葉に頼るしかない。
無言を肯定の意味だと受け取ってもいいのか判断しかねて、俺はもう一度答えを促す。
「ん……風邪、うつっても…知らないからな」
そう言って苦笑を浮かべた鬼道さんは、精一杯伸ばした両腕を首に回して、触れるだけの優しいキスを俺にくれたのだった。