ああ、まただ。
鼻につく甘い香りは燻らせた煙草の匂いで薄れてしまった。

「佐久間、やめろ」

思っていたよりも重々しく響いた小言は、自分の心を表しているかのようだ。
紫煙にかき消された甘ったるい匂いが何だったのかなど、想像に難くない。

「ここでは吸うなと何度も言ってるだろう」
「あ、すみません」

大して悪びれもしないで、携帯用の灰皿に吸殻を片付ける佐久間は、どことなく気だるさが漂っている。
鬼道は佐久間から目を逸らして、テーブルに広げられた資料と、手元の書類に視線を戻した。

「鬼道さん、家に帰ってまで仕事することないでしょう」
「うるさい。お前には関係のないことだ」
「ありますよ。一応俺は貴女の秘書なんですから」
「………」
「貴女の体調を気遣うのも俺の役目です」

もっともらしいことを言って、佐久間は鬼道から書類の束を奪う。
できることならもう少し、背けたい現実から気を逸らしていたかったのに。
けれど、そんなことばかりを気にしていてはこの先やっていけない。それは分かりきっているが、手持ち無沙汰になった鬼道は平静を保ちつつ、どうやってこの男の存在から気を紛らわすかを考えた。

「そんなことよりも……ね?」

何かを思いつくよりも先に、二人掛け用のソファーにもう一人分の体重が重なって、微かに身体が沈んだ。
近づいた距離に、ふわりと鼻孔をくすぐるそれは強くなる。
隣に腰掛けた佐久間の指先が悩ましげに腰を撫で、鬼道は眉をしかめて、不快感を顕にした。

「……盛るな」
「俺、溜まってるんです」

嘘をつけ。
そう、思いっきり悪態をついてやりたかった。
体調を気にするなどと抜かしておいて、二言目にはそれだ。
結局、佐久間は自分と身体を重ねることしか考えていないのだ。
何も感じないように蓋をしていた心が疼き出す。
僅かな心の動揺を悟られないように、鬼道は眉間の皺をさらに深くした。

「……鬼道さん、」
「さく、っん…!…は、んぅ…っ」

しかし、否定の言葉を吐き出す暇もなく、佐久間に顎を捕らえられ、口づけられる。
まるで奪いさるように与えられるキスは鬼道の思考を掻き乱し、荒っぽいそれに、力ない抵抗は間もなく止んだ。

「ぁ、っ……ん」

気付いた時には既にシャツははだけられていて、隙間からするりと忍び込んだ褐色の掌が敏感な肌に触れる。
佐久間の与える快感に、鬼道の身体はいやが応にも反応してしまい、それでも鬼道は、嫌だと何回もかぶりを振った。
何度拒否したとしても、佐久間は無理矢理にでも自分を抱こうとするのだろう。
それは過去に、数え切れない程身をもって経験している。拒むのは無意味に等しく、だから抵抗することを諦めた。
けれど、佐久間から時折香る甘い香りは、どうしても鬼道の心をざわつかせ、決して首を縦に振ろうなどという気持ちにはなれなかった。

「はぁっ……い、やだ……やめろ、やめてくれ」

仕舞いには懇願するかのような言葉まで口にしていて、自分がどうしようもなく惨めに思えてくる。
だんだんと培ってきた自尊心が崩れゆくことに耐えきれなくて、吐き気さえも覚えた。

「鬼道さん……」
「……っ!」

佐久間が身じろぎ、鬼道へと触れる度に鼻を掠める香気の正体。
それは、自分以外の女の匂いだ。
頻度が高いわけではないが、度々こうして目の前の男は、嗅ぎ慣れない甘やかな香水の香りと情事の跡を残し、鬼道の元へやって来るようになった。
その変化に気付いたのはいつからだったかなんて、そんなことはもういっそどうでもいい。
佐久間は、他の女を抱き締めた腕で、自分を抱こうとしている。
ただその事実が何よりも耐え難く、鬼道を追い詰めていた。
そもそもこれは、浮気と呼んでいいものなのだろうか。一応恋人という肩書きはあるものの、セフレと同等の扱いをされていては、ひどく不確かなものだ。
しかし、だからといって、誰がこの仕打ちに耐えることができようか。無理に決まっている。
自分以外の身体に触れたその指に、その腕に、見知らぬ女の匂いを纏わりつかせた男に抱かれるのは不愉快極まりなく、けれど自分にはどうすることもできなくて、よりいっそう辛くやりきれない気持ちは増していく。

「き、どうさん…?」
「え……」

唐突に、まるで壊れ物を扱うように佐久間の指が頬に触れた。
優しく撫でる指の感触を不思議に感じながら、佐久間の瞳に映る己の姿と、伝い落ちた冷たい雫に、自分が泣いてるのだと知る。
一度零れたそれは止まることを知らず次々と溢れ出し、頬と佐久間の指を濡らした。

「………す、みません」
「……っ、ぁ」

いつの間に、自分はこんなにも弱くなってしまったのだろう。
瞬きを繰り返せば、ぽろぽろと落ちて、視界は涙で揺らぐ。
漸く愛撫は止み、佐久間が離れて安堵すると同時に、寂しさにも似た一抹の不安を抱く。触れられることが嫌だというのに、それでも鬼道は佐久間の腕が離れていくことを苦に思う。とんだ矛盾だ。
佐久間は乱れた服を適当に直し、鬼道のそれも同様に正した。

「今日は俺、帰りますね」
「………あぁ」

顔も見れずに返事をすると、佐久間は立ち上がった。
鬼道は涙を拭うこともしないまま、佐久間の気配を感じながらその場に留まる。今更涙を隠そうなんて気は起きないが、とうとうみっともない姿を見せてしまったという思いが自身の惨めさを一際感じさせた。
帰り支度を終えたらしい佐久間は、本当に帰るようだ。
今の精神状態では引き留めることも見送ることもできそうになかった鬼道はソファーから微動だにしなかった。
大きな衣擦れと共に男の足音は遠ざかっていく。


「――ごめんなさい」

ふと、そんな言葉が聞こえた気がした。
鬼道ははっとして佐久間のいた方を仰ぎ見るが、もうそこに佐久間はいない。
ガチャリと遠くで、ドアの閉まる音が聞こえる。
一瞬、佐久間の声に思えた謝罪の言葉を、身勝手なあの男が言うはずがないのだと思い直し、鬼道は未だに涙の止まらない瞳を強く擦った。

「……佐久間」

割りきってしまえば、良かったのだろうか。
過ぎ去った日々に想いを馳せる程、馬鹿なことはないのかもしれない。
過去の思い出も全て、きっと最初からなかったことにすれば、こんな思いをする必要はなかったのだろう。
しかし、何よりも甘く、幸せと呼ぶに相応しいあの日々は、どうしたって忘れることは不可能なのだ。



「……佐久間、お前は私を」

まだ、好きでいてくれるのだろうか。
決して届くことのないその問いは、独り残された部屋に小さな呟きとなって霧散した。





「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -