※記憶喪失佐久間





すべて、忘れてしまえば楽になれるのだろうか。

瞼を閉じれば浮かぶ貴方の顔も、抱き締めた小さな身体も、鼓膜に甘く響いた声も、ゴーグル越しの射抜くような瞳も、時折ひどく儚げに映った貴方の姿も、全部記憶から消し去ってしまえば、いなくなってしまった貴方を想って嘆き悲しむこともなくなるのかもしれない。

起き上がることすら儘ならないこの身体では、天井に向かって腕を伸ばすことが精一杯だ。
白い空間に伸ばされた腕は何かに触れることもなく、空をきる。
なのに、掌にはまだあの人の感触が残っていた。

白、白、白。
見渡す限り、清潔感に溢れた白い世界で、唯一窓から見える空だけが青い。
ふわりと流れた風が、白のカーテンを揺らす。

自分はどうしてこんなところにいるのだろう。
気付いた時には、いつも俺の心を支配していた貴方はどこにもいなかった。
残ったのは、血のように赤いたったひとつの布だけ。
あの日、隣には同じように傷付いたチームメイトがいたけれど、そんなの何の慰めにもならない。
貴方がいなければ、意味なんてなかったのだから。

どうして。

「鬼道さん」

理由なんてとっくに知っているけど、解らないふりをした。
もしも、忘れることで貴方を失った痛みを一生感じることがなくなるのなら、いっそそれでもいいと思えた。
瞳を閉じれば、貴方と過ごした日々が走馬灯のように頭を駆け巡って、泣きたいくらいに苦しくて切なくなる。
肌の柔らかな感触や匂いまでも、全て、俺の身体全部が記憶している。
いとおしくて、けれど憎らしい貴方を心から消してしまったら、自分はどうなってしまうのだろう。

わからない。
でも、いまよりきっと辛くない。


「さようなら」


俺の中の鬼道さん。













「佐久間、そろそろ始まるぞ決勝戦」

聞き慣れたチームメイトの声に、俺は重い瞼を開けて、視線を向けた。
ゆっくりと身体を起こした源田は、ベッドの隣のサイドボードに備え付けられたTVの電源を入れる。
幾分小さめの液晶画面には、重々しい様子のスタジアムが映り、実況の声が病室に響いた。

「そうか、もう決勝戦か……」

病院生活を送っていると、つい日の間隔が狂ってしまうものらしい。
寝て、起きて、ひたすらリハビリに励むそんな毎日の繰り返し。最近漸く歩けるくらいにはなったものの、まだまだ完治は遠そうだった。

FF決勝戦には、地区大会決勝で帝国を打ち破った雷門と、屈辱的なまでに打ちのめされた世宇子が勝ち進んだようだ。
ホイッスルの音と共に試合が始まる。
正直あまり見る気分にはなれなかったけれど、それでも何故かどうしようもなく気になってしまって、視線で雷門イレブンの姿を追いかけた。
本当は、もう試合など見なくとも結果なんて分かっている。
雷門は勝てない。
あの人間離れした、まるで神のような力を持つ世宇子に勝てるはすがないのだ。
奴らは人間じゃない。
それは、俺達帝国が身をもって知っていた。

「ん…?」

世宇子の激しい攻めにボロボロになりながら耐える雷門に、見慣れない奴がいた。
ドレッドでゴーグル、青いマントをつけた見るからに怪しいそいつは、誰なのだろう。
雷門にこんな選手がいたのか、と過去の雷門の試合を振り返ってみる。
その奇妙な格好は、一度見れば、決して忘れなさそうなものだけれど、全く覚えがない。
少なくとも自分の記憶の中には存在しなかった人物だった。

「あいつ、誰だ…?」
「は?佐久間、お前何言って……」

ふと口にした小さな呟きに、隣の源田が怪訝な顔をする。
何か俺に言ったようだが、そんなものより流れる映像に夢中になって見入っていると、実況のアナウンスがそいつの名を呼んだ。

「え……?」

けれど俺は、その名前を音として認識することが出来なかった。
何度も繰り返される名を、それだけ脳が拒否しているかのように聞こえない。
他の名前はいくらでも頭に入ってくるのに、何かがおかしい。
俺はその違和感の正体も解らないまま、液晶の中に映るそいつを見つめた。
辛そうに顔を歪め、何度倒れても起き上がり立ち向かっていくそいつを見ていると、心がざわつく。
青のマントを翻してフィールドを駆ける姿から、何故か目が離せなかった。







「勝ったな、雷門」
「……あぁ、勝った」

雷門は勝った。
俺達が勝てなかったあの世宇子に勝利し、優勝を勝ち取ったのだ。
凄まじい試合だった。
優勝杯を手にし、喜び合う雷門イレブンの姿が眩しく映る。
本来ならば自分達がいたかもしれない場所に立っている奴等を見ると、悔しさと同時に虚無感が込み上げてきた。
しかし、俺の視線は今もなお、誰かも分からないそいつへと注がれている。


「……佐久間、落としたぞ」
「え?」

俺は自分でも知らぬ間にずっと何かを握り締めていたらしい。
はらりと掌から落ちたそれを源田が拾い、手渡される。
再び腕の中に納まった真っ赤なそれは、マントのようなものだった。
胸が、どくんと大きく跳ねた。
何かを訴えるように激しく脈打っている心臓の音が、脳内まで響いて五月蝿い。

「は、っ……ぁ?」

苦しい、苦しい。
息が出来なくなるみたいに胸が締め付けられて、くらりと目眩がする。
うずくまるようにして手元にあるマントに顔を埋めた。
鼻を掠めたのは、どこか懐かしい匂いだ。

俺は、きっとこの感覚を知っている。
甘い香りが肺の中をいっぱいに満たして、熱に浮かされたように全身が熱くなった。
死んでしまいそうな胸の痛みも身体の熱さも、全部俺は知っているはずだ。
覚えるのは、身が引き裂かれる程の切なさだけなのだ。
このマントの持ち主を知らないわけがない。
どこにでもあるような、布の一枚ですら、こんなにも愛おしく感じているのだから。

なのに、何もわからない。何も思い出せない。
心の奥から溢れて止まらないこれを、俺は知っているはずなのに。

あぁ、狂ってしまいそうだ。









「はやく、帰ってきて……くださいよ」


俺は何を言っているんだ。
誰が、帰ってくるというのだろう。
それさえも分からなくて、けれど哀願にも似た言葉が自然と口から零れる。

「き、どう……?」

真っ赤なマントをきゅっと握り締めて、無意識のうちに呟いた三文字のそれに、俺が気付くことはない。
温かいものが頬を伝う。
ぽろりと落ちた一粒の雫は、まるで血のような深紅の生地に濃い染みを残した。



忘却の赤





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