※現パロ





 彼女はとても可愛い人で、それはもうどうしてオイラの恋人だったのかと思いあぐねるくらいなのだが、とにかく彼女はオイラの恋人だった。既に過去形だ。本日付で彼女はオイラの恋人ではなくなった。
 深い茶色の髪がまっすぐに長くつややかで、その髪が彼女の肩のところに溜まったり、首を動かした時にさらりと落ちる具合が、オイラは好きだった。鼻は低かったし、目も特に大きくはなかったのだが、笑うと浮き出るふっくらとした涙袋とか、細かい小鼻のしわとかが、すごく自然でまばゆかった。
 彼女は頭がよく自立した人でもあったから、オイラの手の中におさまりつづけているわけなんて、最初からなかったのかもしれない。いつの間にか彼女はオイラから離れていった。そして関係は終わった。つまり今日、彼女はオイラとの待ち合わせ場所に現れず、三十分くらい後になってからオイラの携帯にメールを寄越し、別れ話となった。

「よお」

 家に帰る途中、公園の前を通りかかったらサソリの旦那がいて、オイラに向かって片手を挙げた。背の低い植木が、アスファルトの道路と彼のいる公園を隔てて、しっとりと闇にまぎれていた。日は既に沈んでいて、旦那以外に人の姿はなかった。寂しげな街灯がぽつんとひとつ、すべり台の脇に立っていて、旦那の座るベンチに無機質な明かりを落としていた。

「旦那」オイラは彼を振り向き、つぶやいた。
 すると旦那が首の角度を変えて言った。「浮かねえ顔してるな」
「そうでもねえよ」
 オイラが要領を得ない返答をすると、彼はもそもそと立ち上がり、オイラのほうへ歩いてきた。砂の混じる公園の敷地から出て、アスファルトとの境目をまたぎ、オイラの隣に並んだ。そしてオイラが引き続き帰路を進んでゆくのに、歩調を合わせた。旦那の横顔はちょうど街灯のせいで逆光になっている。

「何やってんだこんなとこで」オイラは聞いた。旦那がこんな夜に、一人で公園にいるとは。
「タバコ」旦那はそう言ってタバコを取り出し、ライターで火を付けた。
「あ、そうですか」
「で、お前は何やってんだ」
「別に。なんも。うん」
「ふーん」

 ふーん、かよ。オイラは少し眉根を寄せて旦那の横顔を見つめた。しかし相変わらず彼の表情は、ベタとトーンを代わる代わる置いていった漫画のように逆光のうねりが続いていて、何も窺い知ることができなかった。歩を進める度に、街灯は次々に近づいてきて白い照明を投げかけてきた。タバコの煙がそよそよと、旦那の口元から解放され、宙に消えていった。

「夜っていうのはな」旦那は、何の兆候も見せずに話し始めた。「世界が濃密になる時間だ。全ての人間が、意識を自らの中に戻し、本能に従って動く時間だ。意識とはすなわちハマグリだ。自らの内に棲むハマグリのそのまた内で、何が起ころうとしているか、普通の人間にはわからない。そういうわけのわからないハマグリの中身が、夜になると表に出て来る」

 旦那がしゃべることを、オイラはだいたいにおいて理解できない。ハマグリ?また何か新しい芸術の話だろうか。そうだとしたら、今は口を出しても無駄だということを、オイラは長年の付き合いから知っている。旦那の目はずっと正面の一点を見据えているようで、ちらとでもオイラのほうを向く気はないらしい。右足がマンホールのふたを踏みしめた。頭上の白明かりが過ぎ去り、またやってきては二足のスニーカーを照らした。旦那は話し続けた。

「ハマグリからずるずる這い出てきやがったものが、夜の様々のことがらを起こらしめる。夜は眠りの時間なんかじゃねえ。ハマグリが目を覚ます時間だ。俺やお前の意思とは関係のないことを、いや、関係性から目をそむけているようなことを、ハマグリは勝手にやってのけちまう。まったく迷惑な話だぜ。いいか、そういうハマグリの集合体が夜だ。人間の中の、奥の底のほうに窪みをつくって居座っているハマグリの、核が、夜を構築しているんだ。脆弱な人間にはきついもんだろうな。お、そこの屋台うまそうだな。お前おでん好きだったよな」

 旦那はひとしきりしゃべり、道端のおでん屋を指差した。風のない夜だから、のれんはしんとしていた。旦那の声は妙な饒舌さにもかかわらず、いつもどおりという感じだった。抑揚がなく、真っ平らな地面すれすれを漂うような声だ。話の内容はやっぱりよくわからなかった。旦那にしてみたところでも、オイラにわからせようという気は無いようだった。
 その店からは確かに、味の濃そうな食べ物の香りが流れてきていて、オイラの鼻をくすぐった。だが食欲はわかなかった。

「オイラ今夜はパス。ていうか旦那、あんたいつからそんな哲学者になったんだ?いつにもましてわけわかんねーぞ、うん」
「じゃあ帰るか」旦那はあっさりとそう言った。オイラの質問は見事に無視された。
「……別に、旦那一人で寄ってったっていいんだぜ。オイラ先に帰るし」
「いや、俺も腹減ってるわけじゃねえからな」

 二人とも歩みを緩めずに夜道を進んだ。オイラは特に意味もなく、また前方に新しく現れた街灯を眺めていた。少し視線をずらすと、遠くの背の高いアパートに、黄色い明かりが窓の形に並んで、いくつも光っているのが見えた。あそこにそれぞれ住んでいるのは、一人だろうか、二人だろうか、もっと大勢の家族なんだろうか。そんな事をふと考えた。
 ハマグリ。もしあの窓の向こうが一人きりなのだとしたら、その人のハマグリは、傍にハマグリがいないことを、寂しがっていたりするのだろうか。

 オイラの隣には、サソリの旦那がいて、オイラの肩から握りこぶし数個分の距離を歩いている。関係性をひとつ失った後の、こういう気分の、こういう夜に。オイラは不思議な感覚にとらわれた。それは懐かしさに似ていた。旦那はオイラの事を何年も知っていて、オイラも、旦那の事は何年も知っている。互いに互いのことはわかってしまう。例え話の中身は理解できなくとも、唇が微妙に動く息遣い、目つき、ひとつひとつの意味が、互いにわかってしまう。
 そんな相手との間にある、握りこぶし数個分の体積によどんでいる空気は、あたたかい湿気があって、丸くて、手でつかめそうだった。きっとこの空気を吐き出しているのがハマグリなんだろう。そしてまた、オイラのハマグリはこの空気を吸って生きているんだろう。

 彼女がオイラの元を去った。そしてオイラは初めて考えてみたのだ。彼女と多くの時間を過ごし、過ごそうと努力し、結局オイラはどれほど彼女の事を知れたのだろう。どれほど彼女がわかったのだろう。ハマグリの呼吸を聞くことができたのだろう。いつもオイラの隣にいたのは、彼女ではなくサソリの旦那だった。手を伸ばせばつかみとれる旦那の肩を、いつまでもずっと、そこに置いておきたいと思った。
 彼が発するゆるい空気に、自分がぴたりとはめこまれた気がした。

「明日は晴れるといいな」今日も快晴だったのに、旦那はそう言った。
「そうだな、うん」オイラも肯いた。






20120512
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