※たぶん三←サソ
※三代目風影が妻子持ち





 その日、俺は長期の任務を終えたところで、その完遂報告をしようと風影の執務室へ赴いたのであった。しかし風影は居なかった。彼の側近や小間使いの忍たちも見当たらなかった。夜遅くなので仕方がない、と俺は思った。そして風影の自宅へ直接向かうことにした。
 砂隠れの里を歩くのは三週間ぶりほどであった。広くかすれたような目抜き通りを、冬の寒風が、建物を紙やすりにかけるように吹きすさんでいた。俺は久しぶりに故郷の乾いた風を鼻の奥に感じていた。砂の匂いである。俺の匂いでもあり、彼の匂いでもある。

 三代目風影の家は里の外れにある。俺は幼い頃から、そこを何度も訪れたことがあった。俺はその日も特に意識することなく、時が流れるようにすんなりと彼の家へ足を運ぶことができた。そして眼前に広がる彼の庭では、昔、傀儡を派手に暴れさせたこともある。何しろ土地が広いのである。庭に門はついていない。俺は携帯食を口に運ぶのと同じような心持で、彼の家の呼び鈴を鳴らした。
 目的の人物が扉を開け、俺を出迎えた。長身で、よく光る切れ長の目を乗せた、清閑な顔つきの男である。正確な年齢は知らないが、当時は二十代半ば程度だったはずで、しかし、それに見合わぬ落ち着きをまとった男である。
「かみさんいねえの」
 いつもならば彼の妻が出てくるところなので、俺は妙に思い、そう聞いた。
「妻は実家に帰省しているよ。今晩帰ってくるはずだが」
 そう答える風影の様子も、どうにも奇妙であった。彼は感情を表に出すことも、隠すことも、場面に応じて自在にできる男であったが、俺には、感情の読みやすい顔を見せるのがほとんど常であった。その彼が、無理に何かを押し殺すかのような素振りをしていたことが、気にかかったのである。
 聞けば、彼は一週間前に息子を亡くしたのだと言った。彼は俺を室内へ招くと、据えてあった仏壇に線香をあげ、手を合わせた。彼の祈る横顔が、くゆる線香の煙を背景にして部屋の中に溶けていた。それは俺の目に不思議な光景として映った。
「……とても、好い子だった。お前の小さい頃によく似て、可愛い子だった」
 祈り終えた彼は俺に向き直り、そう言った。
 だが、俺はその子のことなどてんで覚えていなかったし、自分の小さい頃のことも覚えていなかった。従って、息子のことを彼がどう思っていたのかも、俺にはわかるはずがなかった。興味もなかった。
 風影が仏壇の前を譲ったので、俺も線香をあげた。それが終わると、彼は、妻の悲しみようと言ったらそれはもう酷かった、というようなことを語った。俺は彼の言葉の上澄みだけを耳に入れながら、灰が落ちゆく線香の赤い先端の向こうの景色が、ゆらゆらと歪むさまを眺めていた。きっと遺影も見ていたはずであるが、今その顔を思い出すことはまったくできない。
「そういうことだから、サソリ、悪いが今日は一人で妻を待たせてくれ。何か用事があれば改めて風影室に来なさい。夜更けにはそこにいるだろうから」


 彼の家から見送られて自宅に帰りついた俺は、部屋に入るなりベッドにばたと仰向けになった。数週間ぶりの我が家の天井は、相変わらず無味乾燥として俺を見つめ返した。少し身体をずらして横向きになる。壁際の作業机が目に留まる。そうだ、傀儡のメンテナンスをしなくてはならない。仕込み針が一本折れてしまったのだった。毒も練り直して補充せねばならない。俺はベッドを下り、机へ向かった。毒の調合を始めるつもりで本を手に取った。ページをたぐりながら、折角だからより強力で複雑な毒を作ってやろう、と意気込んだ。しかし文章が上手く咀嚼できない。図式が記号としてしか目に映らない。俺は思いの外疲れていたらしかった。どうやら眠い。今日はやめにしよう。調合は明日にしよう。
 風影は今、どうしているのだろうか。
 俺は目蓋を閉じた。


 翌朝は寒さで目が覚めた。すぐに風影室へ足を運んだ。
 彼は執務机に突っ伏して眠っていた。高く積まれた書類の山を見る限り、夜通しの作業をしていたらしかった。息子の葬儀やら何やらのせいで溜まっていた仕事を片付けていたのだろう。
「朝だぜ風影サマ」
「ん、ああ……サソリ」
 彼は机に肘をつき、手のひらに額を乗せた格好で俺に応えた。目の下には隈があったが、表情は昨晩よりも和らいでいるようであった。
「昨夜は来てくれなかったな」そう言って彼はにいと笑った。
「来てほしかったか?」俺は訊き返した。
「いや」
「あ、そ」
 からかわれているのだろうか。俺は呆れてため息交じりに応えた。しかし、彼は途端に真顔になり、その切れ長の相貌を俺へとまっすぐに向けた。何か重大な話をされるのだろうという予感がし、俺は口をつぐんだ。彼の眉間には深いしわが寄っていた。
「……あの子は、病で死んだ。お前は知らなかったろうが、ふた月ほど入院生活を送っていた。うちの精鋭の医療班が懸命に世話をしてくれたよ。だがついにだめだった」
 あの子というのは彼の息子のことだろう。俺は黙ったまま次の言葉を待った。
「治療法が見つからなかった。このことは内外問わず極秘事項となっていた。というのは、他里に隙を突かれかねなかったからね。影の名を持つ者の親族が、自里ではお手上げの病にかかっているとなれば、そこにつけ込む輩がいるものなのだよ。特効薬をあげるから引き換えに血継限界を寄越せとか、あるいは、私が精神的に弱っていると踏んで暗殺者を送り込んでくるとか、幾らでもありうる話だ。ちなみに妻が、葬儀を終えてすぐ砂隠れを離れたのもそのせいだ。あれは他里の出身だからね。彼女は身内に息子の死を知らせたくとも、隠密裏に動かねばならなかった」
「ああ、そういうこと」俺は妻が帰省していた理由を知り、なぜか若干の肩すかしを食らったような気分になった。俺はどうやら何かを期待していたらしいのである。しかし、その淡い何かはすぐにふっと消えてしまった。
「何も息子だけの話ではない。砂の医療レベルは高くないのだよ。精鋭たちですら手の施しようのない病を持った人々が、負傷した人々が、この里には大勢いる。サソリ、お前が成長して、立派な医療忍者となってくれれば、私は安心できるのだが」
「ふうん、あんたですら俺に頼らなきゃならねえとはな。風影が聞いてあきれるぜ」
「まあそう言うな。私はお前を信用しているんだ」風影は肩をすくめ、苦笑いをした。
 今度は俺がにいと笑う番だった。
「風影サマのお望みとあらば成って差し上げるぜ、その立派な医療忍者とやらにな。セイチョウなんて待つこともない。俺より優秀な薬師が、この里の一体どこにいる?」
 俺は彼の意図を探るように目を細めてみせた。俺には自尊心があった。彼は俺のその様子を見ると、ひとつ鼻で溜息をつき、すっと顔と口角を上げた。
「結構な自信だ」
 満足げな表情であった。


 任務の報告と、その他雑多な用事を済ませ、俺は自宅へ戻った。昨晩やり残した作業を再開しようと思ったのである。机に向かい、本を開いた。頭は冴えており、部屋の空気もそれと同じくらいにきんと冴えていた。冷気が身体に凍みわたり手指がかじかんだ。俺は両手を椀の形にし、そこへ一気に吐息を溜めた。指先がにわかに温まり、またすぐに冷たさを取り戻していった。
 しばらくして事態が一変した。家に三代目風影が飛び込んできて、妻が倒れたと俺に告げたのである。俺は毒の調合をひとつ終え、傀儡の調整へと移行していたころであった。風影の妻が搬送された病院によれば、彼女は息子と同じような病にかかっているということらしかった。同じような、ということはつまり、確実に「同じ」病であるかはわからないということであった。
 常日頃から鋭く光る風影の目が、一層深刻そうな色を浮かべていた。
「妻が、倒れた。息子と同じ病だそうだ」
「そうか」俺は短く応えた。
「サソリ、ここに、医療班が息子を治療していた時のデータがある。効果的な治療はできずじまいだったが、役に立つ情報もあるだろう。私が、お前に何を言いたいかわかるか」
 彼は俺に焦りと悲しみを見せまいとして失敗していた。きっと彼なりのくだらない虚栄心がそうさせていた。しかし、馴染みの俺の目を誤魔化すことなど不可能であった。俺は黙って彼の顔を眺めていた。
「お前にこの資料を預ける。私の妻を救ってくれ、サソリ」
「俺の専門は毒だぜ」試すように彼の目を見上げた。
「構わない。解けない毒をつくるよりも効き目のある薬をつくる方が、お前には易しいはずだ」
「……あんたは、お抱えのエリートどもよりも俺を頼るというわけだな。わかった、貸してみろよ」

 俺には自信があった。彼の妻を救うことができるという自信があった。それは揺るぎのないものであった。何故なら、俺は彼の息子と妻が患った病を、どのように治すべきか知っていたからであった。
 この砂隠れの里には、俺をしのぐ薬師は居ない。俺の医療レベルは里のそれを突出していた。それは少しでも忍の世を知る者にとっては自明のことであった。俺が「精鋭」として前線を張れないのは、ひとえに若さのせいに過ぎない。誰かを救いたいと願う人間が、最も理にかなった行動をとろうとしたならば、俺に助けを求めるのが当然なのである。少なくともこの里にあるかぎりは。そのことを俺は知っていた。
 一度は片してしまった薬物調合のための道具を再び準備し、本を開いた。そうして俺は治療薬の作成に没頭した。


 予想していたよりも時間がかかってしまった。薬が出来上がったのは三日後のことであった。俺は風影室へ行き、その薬瓶を彼の前に突き付けた。これを彼女に投与すれば、すぐに容態は改善すると俺は明言した。そして実際にその通りになった。風影の妻は元気になった。
 風影は改めて俺の自宅へやってきた。
「妻はもう大丈夫だ。サソリのお陰だ。ありがとう」
 そう言って彼は、慇懃に、俺に向かって頭を垂れた。俺のつま先に口づけせんばかりの深い礼であった。彼は泣いてこそいないようであったが、それに近い表情が俺には想像された。
 俺は、彼のこのような態度を見たのは初めてのことであった。強い矜持をもち、堂々毅然としており、そのくせ都合の悪いことは飄々とかわし、弱い所は決して見せず、目的のためには道理に反する手段さえもいとわない、このしたたかな男が、こんなにもしおらしい姿をしているのを、俺は初めて目にした。
 俺は彼に頭を上げさせた。
「そいつは良かったぜ」
 風影の顔が真正面にあった。彼の目がやわらかく細められたのを見た。ふいに俺は「これですべてを手に入れた」ような気持ちがした。鼓動が少し速くなった。自分の手が震えているのを感じた。心音を吐き出すように息をつくと、風影が自らの胸に俺の頭を抱きかかえたのがわかった。つむじのあたりに彼の吐息を受けた。
「サソリ、お前に頼って良かった。お前はやはりこの里で一番秀でた忍だ。傀儡の造形師としても、操演師としても、薬師としても、お前は誰よりも素晴らしい才能を持っている。お前を目に掛けてきて良かった。お前を幼い頃から見てこれた私は幸せだ。こんな風に言っても信じてもらえないのかもしれないが、私はずっとお前が可愛くて仕方がないのだよ。これからも私をずっと支えていてくれ」
「そいつは良かったぜ。本当のところ俺は、本当にあんたを助けたのかわからないんだ」俺は彼の胸の中で応えた。すると、自分の自尊心がしぼんでいくのにようやく気がついた。俺は卑怯者なのであった。俺は速い鼓動で、自分自身の腹の底を鈍く打ちつけていた。
「……どうした、何を言っている?」
「俺はあんたを助けた。助けたつもりだった。そこへあんたが俺に礼を言いに来た。ならば、俺はあんたを信じていいんだな?風影サマ」
「サソリ、お前の言うことが私にはわからないのだが」
「……俺を軽蔑してるか」
「軽蔑などしていないよ。それにもししていたとしても、お前を愛する気持ちは変わらない」
「ああ……、それでいいぜ」

 彼の身体から砂の乾いた匂いがした。彼の匂いであり俺の匂いでもあった。俺も腕をまわして彼の背中を抱いた。しぼんでゆく自尊心が砂に満たされていった。
 俺は彼が欲しかっただけなのだ。





20120109
20120303加筆修正
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