※サソリとその娘の話
※現パロ





 台所の窓から朝の光が差し込んで、まな板の上の私の手元を四角く照らしていた。リズムよくネギをきざむ。古い包丁できざむ少し日が経ち過ぎたネギは、甘くまろやかなきざみ心地だ。私の朝ごはんにはきざみネギ入りの納豆が欠かせない。
 旦那さんはまだ寝ている。いつも通りの平和な朝だ。ネギをきざんだら次は自分の弁当を用意する。冷凍のお惣菜を解凍して弁当箱につめるだけだから、解凍している間に朝ごはんを済ませてしまおう。そういえば旦那さん、今日の昼ごはんは何がいいかな。でもまあ、何も用意しておかなくてもカップ麺か何かで済ませてくれるだろうし、本日の作り置きはさぼらせて頂くことにするか。あまりのんびりしていると大学に遅刻してしまう。

「じゃ旦那さん、学校行ってくるよ。いつも通り帰りは遅いからね。お昼も夜もごはん用意してないけど、勝手にしてね。あと新聞、今日料金の徴収が来るはずだからよろしく。お金ここに置いとくよ。じゃあね」

 旦那さんが寝ている布団の横に新聞の代金を置きながら、私はそう声をかけた。旦那さんは赤い頭を細い指でくしゃっとやりながら、寝ぼけ眼をこちらに向けた。だが、長い睫毛をゆるませて面倒くさそうにそのお金を見やると、唸りながら再び枕に突っ伏してしまった。うわあ、こりゃ信用できないぞ。新聞屋さんが家に来るまでに覚醒してくれることを願うばかりだ。

 旦那さんというのは、私の父親のことだ。小さい頃、まだママが家にいた頃、近所の人達とママが「お宅の旦那さんは〜…」とか喋っているのを毎日聞いていたから、私まで「旦那さん」と呼ぶようになってしまったのだと、ママが言っていた。
 ママは、私が小学生の時に離婚した。私と旦那さんは特別仲の良い父娘というわけではなかったが、色々ごちゃごちゃとした問題があって、私は旦那さんの元に残ることになった。以来、私は旦那さんと二人暮らしをしている。

 旦那さんはとにかく他人に興味がない人だ。その対象には妻や娘も当然含まれた。そんな旦那さんが、なぜ、どんないきさつでママと結婚するに至ったのかは、まさに永遠の謎だ。旦那さんがママと仲良くしていた風景を私は全くといっていいほど思い出せないし、私も、かなり放っておかれた。
 お陰で私は、中学に上がる頃には、家事全般は難なくこなせるようになった。自分の始末どころか父親の身の回りの世話まで行う、技術的には甚だ大人びた娘に成長した。私の生活力的自立がこうも驚異的なスピードで達成されたのには、思春期の女子一般が抱く父親に対するあの感情も、きっと関係しているんだろう。つまり何かと言えば、おやじのパンツを自分のブラジャーと同じ洗濯機で洗いたくないとかそういうやつだ。

 そういうやつ、があらかた消え去ったのは、いつごろだったろうか。確か高校生くらいのころだ。よく覚えているのは、旦那さんと一緒にテレビを見ていたときのことだ。バラエティ番組で、当時私が好きだったドラマについて、芸能人が喋っていた。そのドラマは恋愛もので、一流企業に勤めているイケメンエリートと、すごく普通な感じの平社員との間で、主人公の女性が翻弄される、といった感じの内容だった。
 バラエティの司会者は言っていた。「女性視聴者の方々にアンケートしてみた結果、予想通り、エリートの彼が圧倒的に人気ですね!」私は「ええー」と思った。

「私は平の人のほうがいいなあ」

 そうやってぶう垂れた私に、隣に座っていた旦那さんが珍しく反応したのだ。

「へえ意外だな。女ってのはエリートが好きなもんじゃねえのか」
「私、エリート好きじゃないよ。外見だけ完全無欠っぽくて、腹の底に欠点いっぱい抱えてるくせに、見えなくて、見せなくて、やだ」
「ほー、餓鬼が偉そうなこと言いやがって。あっちの普通の男のほうが、絶対欠点だらけだぜ?俺みたいにな」

 旦那さんはそう言って画面の中の平社員を顎で示し、くつくつと笑った。私は、旦那さんはわかってないなあ、と思った。
 欠点が見えるからこそ、いとしいのに。例えば旦那さんは、我儘で、口が悪くて、定職がなくて、家でだらだらしてばかりで、毎日パソコンで株の動向眺めだけして、何か専門っぽいオファーが来ても気まぐれにしか受けなくて、パチンコ行って、時々馬券も買って、運と勘だけで稼いでるような人だからこそ、いいのに。
 もちろん、そんな旦那さんのせいで苦労させられていることも沢山ある。でも、完全無欠な父親なんか持ったら、私はそれこそ息が詰まってしまう。旦那さんの人を惹きつけてやまない特長が、その天才的な勘の良さと容姿だけで、私は本当によかったと神様みたいなものに感謝した。

 そう、旦那さんはおそろしいほど整った容姿を持っている。彼を眺めていると、その長く繊細な睫毛と、すっと通った鼻筋と、夕刻の花の影のようにはかないのに、金属のような甘い鋭さをもちあわせた雰囲気が、私も欲しかったなあと、いつも思う。(正直に言うと、この点だけは少し神様をうらんでいる。)
 私があまりにも旦那さんに似ていないので、私は本当にあなたの実の娘なのですかと、本人に聞いてみたことさえあった。だってまともに逆算したら、私は旦那さんが十七の時の娘ということになるのだ。その時彼は、冷めた目でパソコンをいじりながら「俺が血のつながりも責任もなんもねえただの餓鬼を、ここまで面倒みてやるような男に見えるか?」と、さもつまらなそうに答えた。その無表情に、なぜかものすごく納得させられてしまった。
 旦那さんはそういう人だ。


 大学の講義はてきとうに聞き流して、そのあとは夜までバイトをするのが私の日常だ。旦那さんの稼ぎはすこぶるギャンブリングだから、私の稼ぎは我が家の家計にとって結構大切なのだ。バイトが終わった後も、友達と飲みに行ったりするから、私が日付が変わる前に帰宅することは本当にまれだ。
 実はさっき、彼氏と少し会って、「君のお父さんに会いたい」と言われた。いまどき大学生男子が彼女の父親に会いたいだなんて、どうかしてると思うけど、それだけ真面目なのだろうと解釈することにした。
 彼は旦那さんほど美人じゃないが、旦那さんの四割減くらいでイケメンだ。ちなみに、顔の話だ。中身はそれこそいわゆるイケメンで、旦那さん比で六割増くらいだ。まあまあ、好きだ。





 夜中、バイトが終わって帰宅した私を出迎えたのは、いつもと同じ薄暗い玄関だった。旦那さんはとうにご就寝なさっているだろう。
 台所は思った通り、カップ麺の食べかすが散乱していた。ごみくらい捨てろよ、この駄目おやじめ。だが、テーブルの上に「新聞代払った。釣り」というメモと、お釣りらしき小銭がきちんと置いてあったあたりは、大いに感心したのでにやにやした。良くやった、偉いぞおやじ。

 今夜は、私は旦那さんに伝えなければならないことがあるのだ。口で伝えたい。メモじゃいやだ。大体、もう随分長いこと、起きている旦那さんとまともに言葉を交わしていない。いい加減にそろそろ娘の顔を見てくれたっていいじゃないか。
 旦那さんの寝ている部屋へ行き、今朝よりはほんの心もち丁寧に、彼の枕元にかがみこんだ。そしてささやくように、静かに、声をかけた。

「旦那さん、ただいま。新聞代ありがと。ちょっと話があるんだけど」

 旦那さんは半分仰向け、半分横向きくらいの姿勢で眠りこけていた。寝室の窓についているカーテンは閉まり方が甘くて、その隙間から、外の街灯の光が顔をのぞかせていた。窓から入ってくる白い明りが、旦那さんの寝顔をうっすらと照らしていた。
 それまでは「やっぱり起こしちゃ悪いかな」と、ごく普通の申し訳なさだけしかおぼえていなかったはずなのに、私は父親の寝顔なんてまともに見たことがなかったから、びっくりしてしまった。長い睫毛の影が落ちて、顔の凹凸がつくりだすひそかな陰影は、本当に、私が旦那さんの娘なのかと改めて疑いたくなるほどに、非現実的なかたちをしていた。静かな不安が、おそいかかってきた。

「ねえ、彼がさ、旦那さんに会いたいんだって。あ、もちろん今すぐじゃなくて、今度予定立てようっていう話だけど」

 変な不安を払いのけるように、次の言葉を発した。でも旦那さんは起きる気配を見せなかった。もぞもぞと、布団の中でわずかに身体をゆするだけだった。何でもないその仕草さえ、自分の父親らしからぬ仕草のように感じた。窓の外で車が一台、ぶおーっと通りすぎる音がして、得体の知れないもやもやしたものが詰まった胸の中を、右から左へ一直線にひっかかれた感じがした。旦那さんの綺麗な寝顔。おやじらしからぬ顔。幻想の中にいるみたいでこわかった。一刻も早く起きてほしかった。私は震える声で彼を呼び続けた。

「旦那さん、ねえ、起きて」
「私明日も早いしさ、起きてよ。ねえ」
「少しでいいから。聞こえてる?ねえ、」
「パパ」

 その単語は唐突に呼び戻された。なんの前兆もなく、なんの後味もなかった。その時、旦那さんがうっすらと目を開けて、私を見た。
 その時の旦那さんの顔を私は一生忘れられないだろう。やわらかく全てを見透かされそうな、浅瀬のように透明な顔だった。今まで私が生きてきたぶんの歴史が、そこにあった。
 ふつう人間は誰かの顔を見て、「私はこれこれこういう理由で、この人の顔が好きだ」なんて、いちいち思わない。そんなのは詩や小説の世界だけの話だ。なのにこの時の私は、「ああ、私は、私のどうしようもないところが全部清算されている、一緒に過ごした時間をまるごと乗せている、パパの顔が好きだなあ」と、思っていた。

 旦那さんは眉根を寄せて少し訝る様子を見せると、眠たげな片目をごしごしと人差し指の背でこすった。

「あー、なに、お前ももうこの家を出ていく年頃か」

 旦那さんはそう言うと、私の顔をまじまじと見つめた。

「え、いや、そういうわけじゃないよ。私も彼もまだ学生だし」

 私は驚いて、かぶりを振って否定した。なんだそれ、結婚も同棲も、まだ考えてないよ、バカ。
 旦那さんが変なこと言うから、私は突然気がついたみたいに寂しくなってしまった。でも、私はそんな旦那さんを好きだと思った。今なら、旦那さんとママが一体どんな風に恋に落ちて、どんな風に結婚したのか、なんとなく分かる気がした。
 少しの間だけ、大むかし、旦那さんのことをパパと呼んでいた日々があったことを思い出した。その頃のことがどうしようもなく懐かしくなった。なぜ私は、パパと呼ぶことをやめてしまったのだろう。
 きっと、あの頃のままでいられたらよかった。ずっとそこにあったのに、ずっと忘れていたことだった。まやかしの自立が私にそれを忘れさせていた。いつしかそれが当たり前になっていた。旦那さんは、私にどんな娘であってほしかったのだろう。気にしていないはずがないのだ。娘を気にしない親など、いるはずがなかったのだ。

「とにかく、まだ当分お世話になるよ。ほら、私の料理とか掃除洗濯とか、稼ぎとか、必要でしょ?」
「バカ言え。俺ぁ餓鬼に養われるほど落ちぶれちゃいねえよ」
「いえいえ、不束な娘ですが、これからもよろしく」
「それよりお前、たまには早めに帰ってきたらどうだ。十八そこそこの女がこんな夜中に出歩くもんじゃないぜ」
「…うううん、考えとく」
「まあ、せいぜい彼氏にゃ嫌われねえようにするんだな」

 旦那さんはそう言って、いつものようにくつくつと笑った。やはり彼は私のパパだった。胸の奥がきゅうとした。うわべだけで大人になってしまった私にとって、初めて経験する気持ちだった。絶対的で全体的な安心感に似たものだった。
 彼氏に旦那さんを会わせるのが何だかもったいなくなってしまった私は、旦那さんに抱きつきたくて仕方なかったのだが、それにしては長年甘え方というものを忘れていて、恥ずかしいので、思いとどまった。それを知ってか知らずか、旦那さんの綺麗な手が私の頭に伸びてきた。くしゃくしゃと撫でられた。パパの手はあたたかかった。






提出:1/365の幸福
20111108
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