目が覚める。窓の外は明るい。昨晩は雨戸を閉めるどころか網戸のままにして寝入ったから、埃混じりの風がすうすう入ってきていて布団が汚れていた。晴れている。ハトの鳴き声がする。近所の広場からは球技をしているらしい餓鬼どもの声がきこえる。頭が痛い。寝過ぎたに違いない。
 ああ、もう昼か。オイラはぼうっとする頭を掻きむしって立ち上がった。立ち上がった拍子に、首筋にじっとり貼りついていた髪が少しだけ剥がれた。背中の中ほどまでに届く長い金髪。その堅く湿った手触りを指の股で確かめるようにして、首から払い落とした。この季節に長髪は暑くて敵わない。だが特に切りたいとも思わないので、後ろで適当にひとつにくくってクリップで留める。手慣れた瞬間芸だ。何だかんだこの髪が気に入っているのだ。だっていかにも芸術家って感じがすると思う。
 腹は減っていなかったので、着ていたTシャツを代え、顔だけ洗って外の散歩に出かけた。芸術的感性を鍛えるために、こうして散歩をするのをオイラは日課にしている。足をおとす度にカンカンと音が鳴る鉄のボロ階段を下ってアパートを後にし、アスファルトの道路に出る。おてんとサマがキラキラしながら、オイラの頭皮をじりじりと焼いた。空は突き抜けるように青く広く、夏の雲がくっきりと存在感をはなち、道端の木々の緑色は、顔料をべたべた塗りたくったみたいに鮮やかに迫ってくる。広場の前を通りかかると、やはり中学生くらいの餓鬼どもが土にまみれてサッカーをしていた。コーチらしき男が野太い声で中学生に指示を出していた。それを受けて、餓鬼どもは声を揃えて叫ぶように返事をした。
 景色が何もかも、どぎつい。オイラはもっと繊細な芸術が好みだ。どうして世界はこんなにも押しつけがましいのだろうか。全部突っぱねてやりたい。
 ――何やってんだろ、オイラ。
 ひと月前に学校を辞めた。
 美大に行きたいとは子供の頃からずっと思っていて、高校の時の進路相談では「美大に進む!」と声高に宣言した。だが実際に入学したのは美術系の専門学校だった。そしてその学校を三月ばかりで辞めたのだ。美大に入り直したかったとか、専門学校という体裁が不満だったとか、そういう理由で辞めたわけでは全くない。オイラはアートに関する環境なら何でもよかったのだ。だから受験した美大すべてにぽいぽいと落とされてもさほどがっかりすることもなく、あっさりと近所のスクールへの入学を決めてしまった。
 入学先ではよく褒められた。どうやらオイラの持っている感性は「人並ならぬ独立した若々しくエネルギッシュな」ものなのだそうだった。講師らはそう言ったし、学友もオイラを取り巻いて色々と騒いでいた。その時のオイラは得意気だった。どうだ見ろよ、オイラの芸術はこんなにも称賛されている!こりゃあオイラの天賦が発見され世界が驚く日も近いぜ、うん。だがある日のことだった。今日に負けず劣らず天気がものすごくよくて、まるで中学生の餓鬼みたいに、教室の窓から降り注ぐ陽光に馬鹿みたいな青春を感じてしまいそうな昼休みのことだ。いつものように友人に囲まれて芸術を談論していたら、突然オイラは自分の冷静な部分が、頭上の高いところからオイラを見下ろしていることに気づいてしまったのだ。その「冷静なオイラ」はとんでもなく冷ややかに、全てを悟ったような呆れた目でこちらを睥睨していた。その視線はオイラを世の理から脱落させるのに十分すぎる威力を持っていた。オイラはその日のうちに学校を辞めた。

 はー、くだらねぇ。オイラは何をやってんだ。
 厭味ったらしく青々とした木々が太陽の下で生命力にあふれているさまを見ながら、オイラは溜息をついた。
 もしかしたら、そろそろ粘土のストックも無くなってきているんじゃないか。ふとそう思いついた。身分を喪失してからも、オイラは粘土をこねて作品をつくることは休まなかった。オイラはひとつの作品に壮大な時間をかけて取り組むタイプではないから、小さな作品を一日一個仕上げるくらいのペースを保っていた。芸術というのは流動的なものだ。一瞬の直感に左右されるものだ。長くこねくりまわすほど停滞してしまう。それがオイラの信条だった。
 携帯がポケットの中で震えた。発信元の名前に嫌な予感がしたが、通話ボタンを押す。
「デイダラ兄!いい加減どーにかしろよ!学校やめちまって、アタイはてっきりどっかのアトリエにでも入れてもらうのかと思ってたのに、公園でフラフラしてるだけだって聞いたぞ!じじい、もう来月から仕送りしねーって、アタイもうかばいきれねーよ!」
 久しぶりの電話は従妹からだった。相変わらずの強い声だ。
「あー、うん、わーってるって。オイラもそろそろ働かなきゃとは思ってんだ、うん」
 オイラにはそう言うしか選択肢がない。黒ツチが送話機の向こうで溜息をついた気配がした。
「ほんとにわかってんのか?とにかく、じじいはカンカンだからな」
「ああ」
「働き口のあてはあんの?」
「ああ、まあ」
「ねーんだろ。いいよ、アタイが協力してやる。デイダラ兄、下手な仕事させると変にハマりそうで危ないし」
「いや、協力とかいらねーから」危ないとはどういう意味かと疑問に思うも、反論する気力がない。「じじいにも宜しく伝えといてくれ。もう仕送りいらねーからよ」
「ふーん、そう?妙に物分かりがいいんだな。まあ近々そっちに電話が行くと思うから、よろしく。じゃあな」
「は?いやその」
 電話が切れた。黒ツチが小ざっぱりとした声色で告げた最後の言葉の、意味がわからない。そっちに電話が行く?
 オイラは携帯を投げ捨ててしまいたい衝動にかられたが、何とかこらえ、忌々しいそれの電源を切った。頼むからこれ以上オイラの領域を侵さないでくれ。
 オイラがおかしいのではない。世界がおかしいのだ。オイラほどの才能があれば、今ごろは世界に名だたる芸術家として、どっかの美術館のメインスペースで特別展が設けられているはずなのだ。もしくは、どっかのでかい公園に建てる新しいモニュメントの作成依頼がきているか。いや、そこまでではないにしても、隠れ家的アトリエを持ち、話を聞きつけた物分かりのいい客がオイラを訪ねてきて、作品を高値で買っていくくらいのことがあっていいはずなのだ。
 日焼けた首筋がひりひりする。オイラは日除けのために、留めていた後ろ髪を背中へ下ろした。



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