■ 揺れる水面。
そうと決まれば話は早いもので、翌日には私は荷物を纏めてノボリさんのマンションへ移り住むことになった。最後まで父は行かなくて良いと止めてくれた。本当に優しい父だ。それをやんわりと断り私が決めたことだからとまだ何か言いたげな父を尻目に押し通した。
ノボリさんの家はライモンシティの中心にある大きなデザイナーズマンションだった。私の経営するカフェもすぐ近くで立地に関しては全く問題ない。むしろ今までより良い位だ。広さに関しても私一人が増えるくらい支障なさそうだ。
そしてノボリさんは今日のためにわざわざ仕事のスケジュールを調整して休みを取ったくれた。
「今日はお休みを取って頂いてすみません。」
「とんでもございません。大切な方を迎え入れる日ですから当然のことでございます。」
お、大切な方ってさらりと言われた。私達お互いのことをまだ全くといって良い程知らないのに。私はきっとノボリさんが描いている理想の女性ではない。まだまだ仕事も優先したいし、今のカフェの経営をしている以上ノボリさんの仕事のサポートに回るのも難しい。まぁきっとそんなことを確かめるための一ヶ月になるのだろう。
荷物の整理も粗方住んだところで、休憩しましょうと声を掛けられた。
「キッチンお借りしますね。紅茶はお好きですか?」
「えぇ、好きです。それにもう此処は貴女の家ですから好きに使って頂いて構いませんよ。」
分かりました、と軽く返事返してキッチンに立つ。私は紅茶が大好きで、自分のカフェでも特に紅茶には気合を入れている。今日はお気に入りのアールグレイにしよう。持ってきたティーポットとお揃いのカップにあらかじめお湯を入れ温めておいた。お湯を捨ててティーポットに茶葉を入れるとふわりと良い匂いが舞い上がる。私はこの瞬間がとても好きだ。そして少し高い位置から沸騰したお湯を注ぐ。蒸らしている間にゆらゆら揺れる茶葉をぼうっと見ていた。紅茶が出来上がりノボリさんの元へ持って行く。
「お砂糖は?」
「いえ、結構です。とても良い香りですね。」
「分かりますか?お気に入りの紅茶なのでストレートで飲んで頂きたかったので嬉しいです。」
「紅茶がお好きなのですね。」
「えぇ、とても。」
「此処に来てから初めて笑われましたね。」
「え?そうでしたか?」
「えぇ。笑った方が素敵です。」
自分でも気付いてなかったのによく見てるんだなぁ。恥ずかしさを隠すために持っていたティーカップに口を付ける。そんなゆったりとした時間を過ごしながら、少しずつお互いのことを話していた。
「ヒメ様に約束して頂きたいことがございます。」
「何でしょうか?」
「まずこの一ヶ月間はご自身を偽らずありのままのヒメ様を見せて下さい。そして、私達は仮初の夫婦ですが、本当の夫婦のように生活を送って頂きたいのです。」
「それはノボリさんもお約束頂けますか?」
「勿論です。」
「分かりました。お約束します。」
「ありがとうございます。」
はにかむようにノボリさんが笑った。ノボリさんこそちゃんと笑ったところ初めてじゃない。でもこんな笑い方をする人なんだ。少しずつだけれど、前向きにノボリさんのことを知っていこうと思う。
「では私からもお願いがあります。」
「何でしょう?」
「様付けはなしですよ?夫婦なのにおかしいですから。」
「分かりました。」
またさっきの笑顔で答えてくれた。綺麗に笑う人だな。気品があるというか。そういえば一体いくつ位なんだろうか?なんとなく私より年上だと思っていたけど。まぁ焦る必要もないし後々聞けば良いやと自己解決した。
「ヒメ、これからよろしくお願いします。」
「こちらこそ。」
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