かきもの | ナノ


「冷たい熱帯魚」のつづき
かなしいはなし


女性の身体にはだいぶ前からすでに諦めを覚えていたのかもしれなかった。凰壮は重苦しい闇のなかでうずくまるように寝転がっていた。夜はもうずいぶん寒い。ひとりならなおさらだった。きし、と鳥の鳴き声で床を軋ませて、それからすぐにドアの取っ手が動く。油の注されていないような、金属の嫌な音だ。
「寒いんだ、タオルかけるから、取ってくれよ」
「いらないでしょ、意地悪いんですね」
凰壮は眉をひそめて黙っていた。意地悪いのは誰なんだと静かに苛立ちながら、肌寒さのせいにする自分のことすら気味が悪い。目を瞑ってみせる。竜持がそばのスタンドライトにスイッチを入れたらしく、瞼の裏がぐわんと眩しく色づく。視界がちかちかする。このまま暗転してなにもかも嘘になってしまえばいいのにと思ったが、「ぼくがいちばんだって、思ってほしいだけなんですよ」と諭すような竜持の声が彼の淡いイメージすら奪い去ってゆき、凰壮は不機嫌を隠せなかった。
「それ、消せよ」
竜持は聞こえないふりをしたのか、目を閉じたままの凰壮の瞼にキスをする。竜持の膝が内股のあいだに滑りこんできたので、これ以上は何も言わなかった。白い肌が白熱灯のあたたかい光に艶めかしく晒されている。
竜持は凰壮の首筋をやさしく舐める仕草をよくする。凰壮自体は彼のこの癖が本当のところ、あまり嫌いになれなかった。自分がいつもこれっきりのつもりで激しく抱く間に、すこしでも長くと思ってそうするのだろうか?考えると、自分の逃げのために彼を痛めつけて精神的に傷を負わせることが凰壮にはできないのだった。おかしな情が移ってしまった自分が嫌で嫌で、腹が立って仕方ない。竜持はいつでも凰壮を捕まえておくかのように彼を組み敷いている。下腹部に乗り上げた腰に触れると、すこしだけ身体が跳ねたようだった。


こないだもそれ、消せって言ったろ、今夜も凰壮の声がくたびれたように弱々しく耳に触れた。先日にならって、小さな白熱のスタンドライトをたった今置き去りにしてきたばかりの竜持が彼に問いかける。
「また……だって、何も見えないと困るじゃないですか」
「うるせえよ、黙って消せ」
亭主関白、と冗談めかして笑いながら、すばやく伸ばした指の先でスイッチを切る。凰壮は苛ついている。それは彼がせっかちだからという理由ではないこと、それを竜持は悲しく思う。マイペースじゃなければ良かったのかなあ、マイペースじゃなければきっと愛せなかったけど、皮算用ばかりが笑顔を重くした。
凰壮が明かりを消したがるわけを竜持は知っていたが、知らないふりを続けている。それは凰壮がしようとすること……つまり相手の見えないセックス……と結局は同じで、重なる血の温度に対するしつこいだけの罪悪感でしかなかった。ふたりとも他人のふりをするのには慣れている。しかしふたりとも互いの姿を把握できないことが最も鮮明なのだということを、暗黙のうちに感づいてもいたのだった。
「ねえ……凰壮くん」
「……」
「ねえってば」
「んだよ」
「つけましょうよ、やっぱり。そんなに明るくなくていいから」
凰壮の首筋に触れながら、いつもの欲求を口に出す。実を言えばさびしくはあったのだ。竜持は凰壮と違って、ほんとうに彼を大切に思っていた。渋々うなずいたのを見て彼はライトをつけ、せめてこちらに直接光が当たらないようにと背を向けさせた。自らの手で回転させながらも竜持は「ぼくたちは光から背を向けているのだ」と主観の思いをセンシティヴの切っ先でめぐらす。幾度となく繰り返した会話のはずが、そんなことを直感するなど初めてのことだった。
「いつも許してくれますよね、ほんとは、凰壮くんはやさしいんですよ」
竜持は凰壮が横たわるベッドに片手をつきながら言う。「どうでもよくなっただけだ」、彼は脱力しきったようすで、片手の重みのとおりに沈んでゆく。このまま彼が沈んで見えなくなってしまったらどうしよう、不安が急に胸を刺して、「ぼくが慰めてあげますからね」と呟きながら、竜持は凰壮を抱きすくめた。


陽のあるときは穏やかで心地よい。特に竜持は夕暮れ近いぎりぎりの時間が好きだった。凰壮の隣でふたりして磨き上げられた木の床に座りこんでいる。もっとも「昔の自分たち」を想像させる時間、彼のゆっくりした息づかいが聞こえる。
「凰壮くん」
こんなふうに生きていきたいとずっと思っていた。竜持の呼びかけに応えて、自分と同じ赤色をした目が向けられる。うさぎの目が赤いのは、さびしくて泣いたからだそうですよ。きっとぼくらもさびしかったけど、もう違うはずでしょう?
「今ぼく、とても幸せなんですよ。凰壮くんといっしょにいられて」
竜持はぼんやりした調子で言った。夢を見ているようだった。凰壮がはっとしたように目を動かして、「なんだ、それ」とちいさく呟いた。
「幸せ、って……なんのこと、言ってんだ」
「それはさっき、」
途端、つめたい床の温度が痛みとともに全身に打ちつけられるのを感じた。目の前の凰壮ごしに見える大きな窓が夕焼けであまりにも染まっているので、まったく夢のようだと竜持はやはりぼんやりして思う。自分の右肩に体重を掛けたままの凰壮の身体がわずかに震えている。
「……おれといることが幸せだって?ふざけやがって畜生!おまえの幸せのせいで誰が……誰が不幸せになってるかなんて考えたこともないくせに!」
は、と浅く息をして、竜持はしばらく声が出せずにいた。何が起こっているのか、なぜ怒っているのか、分からなかった。信じてきたものを突然覆すことなど到底できるものではない。だって凰壮は、どんなに自分につらくあたろうと、決して痛くはしなかったのに。あんなにやさしかったのに。そのやさしさが自分だけに翳されるものになってくれると、彼は見捨てないのだと、思っていた。
「凰壮、くん」
「もっと……何もいらないんだ。普通でいいんだよおれは、こんな生活まっぴらだ、どっか行ってくれよ……死んじまえばいいんだよ、おまえなんか死んじまえ!」
震えていた手が強く竜持の首を掴んだ。喉の奥で苦しげな声があがったにもかかわらず、竜持はまるで呆然となって窓の外の夕焼けを見つめていた。真っ赤になってるじゃないか。このまま暮れないで真っ赤なままでいてほしいのに、夏至をすぎた夕日は流れていく絵の具のようにすばやく沈んで、戻らないのだった。もう、間にあわない。抱きすくめることも、できないんだ。
誰のせいだ、ぼくのせいだ。自分の幸福がどれだけ相手を苦しめるか、盲目で気づかないのはなんて愚かだろう。息ができなくて、頭のなかがめちゃくちゃに絡まって、何も言えなくて、ただ泣き出していた。凰壮が驚いたように手の力を緩ませる。すこし間があって、「泣きてえのはこっちなんだよ」とかすれた声だけが残される。たしかにその通りなのに凰壮が両手を握りしめたままつらそうに部屋を出て行った後も、あふれるものは止まらなかった。どうして泣いているのだろうという惨めな思いを流れる涙で体温を奪われる頬に感じる。それがおそらく凰壮のためではなく自分のエゴのせいだろうと気づくと、竜持はすでに押し殺していたはずの声を抑えきれなくなっていた。

凰壮は全身の力を抜いた。握りしめていた両手がうまく動かなくて鈍い痛みを残している。彼は先刻のことを思い返していた。倒れた竜持は痛そうにもしないであらぬところを見つめていた。凰壮の背にあたる夕陽が竜持の肌を活き活きと濡らしていたので、彼に毎晩オレンジ色の灯の下で行われる情事を連想させてしまう。竜持の目は回想するように遠くにあって、意志がなかった。きっとこんな目をしていた自分を、彼はどういう気持ちでいつも見下ろしていたのだろうか。「死んじまえ」という言葉もまた、凰壮の胸をきつく締める。あんな自発性のない言葉を無責任に放った自分が憎らしく、せめて「殺してやる」とでも言えばよかったなあ、と伏せた目で考えていた。移った情と、そのせいでなおのこと強くなる自己嫌悪も毎晩のものと同じだった。
ほんとうなら、今も自分はまっとうに誰かを愛しているはずだった。「ぼくは凰壮くんが好きですよ、安直に言えば」……と竜持の声がよみがえる。安直……竜持はその単語に何を隠したのだろう。好きの一言で表せないものを彼はたくさん抱えていたのか?一般的に「恋愛」と呼ぶべきものたちのように?
「やめてくれよ……」
倒れこむように自室に入ると、凰壮はベッドに潜った。いつもの夜が、今夜から変わるだろうかという願いを反語に織り交ぜながら眠る。


泣きに赤く染めた目尻を気にしながら、凰壮の部屋のドアノブに手をかけた。長く吐いた息にためらいを隠している。このままドアを開けたら、仕方ねえやつだなおまえは、なんて昔のようにぼくを苦笑のうちに許してはくれないだろうか?しかし彼の胸のうちにあっても、期待は期待のままでしかなかった。ドアを開けるときの、アンティークめいた金属音が好きだった。
部屋は真っ暗にされていた。凰壮は毛布を頭から被って眠っているらしく、ドアの外の光を受けて仄かに白く浮かびあがるものがこんもりとベッドの上を陣取っている。そのさまがまるで繭か蛹に見えるのが、滑稽でありながら切ない。ここから彼が抜けだしたとき、昔の凰壮に戻っていたりはしないか。あるいはぼくを、今度こそ大事にしてくれたりは……再生を願えど、自分たちは紛れもなく人間の兄弟だった。ならば彼が目覚めないことのほうが竜持にはよほどつらかった。
ベッドに片脚をのせて、凰壮の名を繭の端で呼んでみる。身じろぎこそしたが彼は出てこなかった。この繭を引き裂いて、大人になれないままの彼と抱きあってしまおう。大人になれないのはどちらだろうか、変わってしまったのは、変わらないのはどちらだろう、竜持は再び混乱していた。こんなこと、少し前まではなかったのだ。唇を噛みしめて毛布を引き剥がす。「凰壮くん」、こちらを向いた彼と訳も分からずキスをした。きみだってあんなに乱暴したじゃないか!
「……なあ」
「だまって、黙ってください、頼むから……」
凰壮は口をつぐんだ。わがままを言うのはいつも竜持だった。それでもなお、ふたりとも渇いた思いでいるのはなぜだろう。凰壮だって整わない息で身体を交えている。確かに今ふたりは愛しあっているはずなのだ。だが女を愛していた凰壮はあんなに満たされていたのに、彼を手にいれたつもりの竜持には何もなかった。はじめて真っ暗な部屋のなかで抱かれた。闇に抱かれているようで竜持はまた泣きそうになる。竜持は漆黒などではなく、凰壮のことを愛していたかった。

「ごめんなさい、ごめんなさい……」
竜持が荒い息で絶え絶えにつないだそれが誰に向けての謝罪なのかは凰壮には分からなかった。あのとき自分を捕らえていた竜持を仰向けにして、今度は自分が彼を捕らえて離さなかった。竜持はひたすら、喘ぎに似た嘆声を繰り返している。おまえもおれと同じじゃないか。なあ、おまえは昔を懐かしむけど、過去にはだれも戻れないんだぜ。制された言葉を、凰壮は吸気とともに肺に流す。暗がりで見えない竜持の目尻が赤いだろうことに、彼は最初から気づかないふりをしている。

凰壮の顔が見えない。感覚は研ぎ澄まされるどころか、凰壮の姿がないことによって次第に虚ろになってゆく。変われないことは分かっていた。ただ望んだことと違う形で愛しあうだけなのに、残ったのは虚無と不安だけだ。何もかも嘘なんじゃないのか?ぼくはずっと、ひとりだったんじゃないのか?確かめるのが怖くて、竜持は手を伸ばすことができなかった。知らんふりを続けるのだ、これからも……あのときの白熱灯が、たったひとつの光が失われてしまったと思うと唇がわななく。幾度目かの涙は光なく静かに流れていた。







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