かきもの | ナノ


人は言葉を知ってすこしばかり馬鹿になってしまった。花の中で蜂がうるさく騒げど、女王がただ一匹大人しくコロニーに鎮座しているさまを容易く思い描くことができる。王たる静寂というのは人間より自然のほうがよほどわきまえているらしく、言葉のために人間が不便を被る所以のひとつがそれである。
降矢竜持はふと、自分がこの不便極まりない呪文を幼くして操りすぎたように思った。知見を広げるために覚えたもののために肩身はいっそう狭くなりゆき、息苦しくなるばかりであった。これが女王と働き蜂との違いなのだなと、イメージをまたも易々と描いた竜持は嘆息を呑む。理解者を待つのは無駄足だったのでやめた、つまり三人は諦めることにした。結局今の今まで、メフィストフェレスの器を包むものは、彼らの狭まった視界には映らなかったのである。

「まさか、あなたがコーチだなんて信じられない……とまでは言いませんけどね。人の縁なんて意外に近しいものですし……だけど、ぼくら楽しみなんですよ、ほんとうに」
「楽しみ」なんていう単語を口に出したのは実に久々であったように思う。このとき、竜持は密かに試していたのである。目の前に無精に佇んだ男が、自分の笑みに畏怖を覚えるだろうかと、きっと今に眉を寄せるに違いないという僅かに湾曲した自尊心すら携えていながら。だがいくら待ったところで、男の気だるそうな風体やその奥の鋭い目に変化はなかった。男は短い返事をしたきり黙って(それは短時間ではあるが明らかに静寂と呼ぶべき代物であった)、「楽しみ、ね……」と呟いた。何やら考えこんでいる風であったが、竜持の興味はそれより彼の内にある人間性に注がれていた。
「あなたがコーチになるというんでしたら、ぼくたちからひとつ、質問させていただいても?愚問でしょうけど」
「構わない」
「あなたの目に、ぼくたちはどんなふうに映るのですか」
賭けをしたいと思った。子供のふりした悪魔を見たって驚かない男、面白いじゃないか!どこまで身を委ねられるだろう。どこまで真実を零していいのだろう、どこまで建前を使ったらいいのだろう。通じるはずの兄弟にさえ打ち明けなかったことを、今度こそ話せるだろうか?
「そうだなあ……まだお前たちのことをよく知らないが」
「ええ、それで良いんです」
焦らされているようで、竜持はゆるく唇をかんで片手の親指をそこへ遣った。女のようだからこんな癖、はやく止めてしまいたいのに、またやってしまったと片隅に後悔を覚える。
「……俺も楽しみなんだ、実は」
強く握った手を思わず開いた。はにかんで笑うひとは見た目にそぐわない幼さを携えて、ふと苦々しくなる。羨んでいる自分が嫌だ……自分をこんなふうに作り上げた家庭を、父親を、崇めながら恨んでいる二律背反をたった一言で抉られたようで竜持は息を止めて目を伏せた。(ああ、これもひとつの『大人』の形なのだな。)そうだ、たった一言で物語ってしまう。自分が幼いながら集めた知識やセンスのすべてを、このひとは退廃しないうちの生きた言葉で伝えてしまった。
「すてきですね、」
「は」
「ぼくたち、どうしたって大人に近づきたいんです」
するりと流れた、いかにも自然だろう?なんの複雑さもなく余計な思念も混ぜずに伝えられる気がした。このひとは気づいただろうか、瞬間だけ、ぼくとても真剣な顔をしていたでしょう。世間で纏う壁をあなたの前でだけは崩してみようと思ったのです、脆くては困りますがね。
「なりたくてなれるもんじゃないだろう、狭っ苦しいぞ、大人なんて。それでもなりたいなら、思うように伸びてみろ」
「それって、臨機応変に生きろということですか?」
「ちょっと難しくなってないか」
唖然として半開いた口を竜持は慌てて閉じた。そのことがひどく恥ずかしくて、情けなさからこみ上げた笑いを抑えずにいた。言葉の巧みさで王になろうとしたこと、ぼくはなんと愚かだろう!このひとに着いていったって、なかなか良いんじゃないだろうか。長男の勘というのは意外に当たるものだ。「なんだ、できるじゃないか」肩をたたくような声を心地よいものとして、彼は口元を覆って幼い笑みを隠しながら、その声ばかりは公園のランプのもとにいつまでも遊ばせていたのだった。







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