かきもの | ナノ



水のぬるむ時期になって、僕はどうも参ってしまう。夏は好きだけれど苦手だ。好きなひとは日射しの似合うひと。麦藁かぶるのは僕のほうだけで、その姿も蝉の声にかき消える不安を隠しつつ濡れたシャツを扇ぐ。海に行くよりは水族館のブラックライトが好ましい。
「八月は猛暑になるかもってさ」
「やめてよ、もう」
「仕方ないじゃないか」
控えめな笑いが漏れた。そういう彼もタンクトップに着替えてテレビを流し見している。日焼けした上腕は引き締まっている。汗をかいたって格好いいのだろうなあと思いながら、僕は床に寝転がって観察日記のごとく彼を見つめた。こんなすてきなひとの傍らにいるのはどうにも嘘のようだった。視線も夏では心地悪かろう、「そうは言っても暑いな」と呟かれる。
「これから今より暑くなるんでしょう」
「ああ」
「夏らしいのは結構だけど……」
次は僕の変な笑い声を聞いた。緩やかに流れるようでいて、時の中には確かに張りつめた糸のようなものが見えている。僕のために。床はぴかぴかしてよく滑るので、彼のほうまで風流の全身スケートをすると髪を撫でる指に絡まって、束の間涼しげな心持ちになる。汗滲む髪は指通りがよろしくなくってごめんね。目を閉じていれば子どものころの夢、母のそばで心地よく眠ったことを思いだす。大事なひとのそばで、今はいないひとのそばで、そばで。腿に額をこすりつけながら今度は泣きそう。感情がくるくる変わって、季節をまたぐたびに僕はどんどん、どんどん、おかしくなってゆく。僕はおかしくなってゆく。豪炎寺くんは知らない、または知らないふりをして、いつものように気高く微笑みかけて、撫でる手を止めないでいる。糸が切れてしまいそうだよ、水族館の魚になりたいなあ!自由に見えても誰かの保護下、自ら命を捕らずとも生きてゆける。それを認めてくれる世界にいきたいなあ!そんなふうに思っては、彼へのぬるんだ罪悪感がひたひたと胸を侵してゆくのだった。
「豪炎寺くん」
「どうした」
「水族館に行きたい」
これは最後のわがままになるだろう。豪炎寺くんは思案するように目を遠くに遣って、すこし混んでいるかもしれないがと言った。頷く僕はこれ以上ここにいられない。豪炎寺くんの姿が日射しと蝉時雨にかき消えるというなら、おそらく僕の姿はブラックライトと無音の中に溶けこんで見えなくなってしまうのだ。ゆっくりと確実に衝き動かされてゆく心はあまりにも冷静だった。ひとりに愛されるほど特別な人間なんかじゃあない。ひとりを愛せるほど偉い人間でもない。僕の世界でひとが死ぬだなんて、いやだなあと思っている……アクリルのトンネルを潜り抜けたとき、僕は誰一人をも煩わさない僕になろう。髪を梳く指が名残惜しかったけれど仕様がなかった。おかしくなった果ては魚になりたいって麦藁のなかでずっと考えていた夢が叶うのだ。今度こそいけにえの羊なく、等しく愛し愛されるのだ。
「ほんとうにありがとう、ね」
訝しむ彼の目は涼やかで、照らされる水の色もきれいに映すのだろう。







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