補習が入って遅くなるから、今日は来なくてもいい。
そういった内容のメールが届いたのが数分前。どうせいつものアレだろう、と舞夏は小さく溜め息をつくと、広げていた包帯やらガーゼやらを手際よく箱に戻していく。一度も使われていない新品のそれらを、土御門の家に行く前に確認するのが習慣となっていたのだ。どうせ使う機会はないだろうと分かっているのに、舞夏はいつもそれをエプロンスカートのポケットに滑り込ませる。

(…どうせ兄貴は、私には何も話してくれないしなー)

信頼されていないわけではない。疎まれているわけではない。そんなことは分かっていた。
彼はただ、自分を巻き込みたいだけなのだ。傷つけないために、庇うように立ちふさがり、舞夏を自分自身の背中の後ろにすっぽりと隠してしまう。自分が見ているものが、舞夏には見えないように。だから舞夏は知らない。義兄が何を見て、何から自分を守ろうとしているのか。いつもいつも、その背中だけを見つめてきた。

(私は、何も知らない。だけど、"知らない"ということを、知ってる)

彼の背中の向こう側には、きっと血や硝煙の臭いがこびりついて取れないような、そんな場所が広がっているのだ。彼のシャツと、同じで。
いつからだったかなんて覚えていない。いつの間にか、彼からはそういう匂いがするようになった。でもまだ、舞夏にとってそれは別に良かった。その血が、彼のものでない限りは。それよりも気になったのは、

(消毒液の、匂い)

どんなに隠そうとしても隠し切れない、彼の身体からする消毒液の匂い。病院を連想させるその匂いが舞夏の心を不安で駆り立てるのだ。

いつも付けているカチューシャを外し、前髪をくしゃりと握る。

(…ああ、もう)

いっそのこと、本当に何も知らなければ良かったのだ。ただ無邪気に彼に抱きつけるくらいに。そのことがたとえどんなに馬鹿で愚かであっても、彼はそれを望んだだろう。でも、それは無理な話だった。
一体何年、一緒にいたと思っているのか。
そんな嘘を自分が本当に気づけないとでも思っているのか。

責めるわけにはいかないのだ。だってきっと、立場が違えば自分だって同じことをした。
だけど、だからこそ。ぶつける相手のいないこの感情は舞夏を苦しめる。虚しくて悲しくて、何よりも、何一つすることが出来ないことが悔しい。

(兄貴は、望んでない。私が、首を突っ込むことを。…兄貴が望んでいるのは、私が何も知らないで、)

笑っていること。

区切りながら、舞夏は自分に言い聞かせるように繰り返す。そうでないと怖いのだ。彼のことを責めてしまいそうで。

大丈夫、と自分を納得させて舞夏は手を付いて立ち上がる。カチューシャを掴んだまま、寮の自室にある洗面所に向かう。

(…大丈夫、笑える)

鏡の前に立ち、笑顔を作る。彼を迎えるときに見せられるように、なるべく無邪気そうに笑ってみせる。
彼は自分のことを嘘つきと自称するのは知っていた。ならば、その彼を騙し続けている自分はとんでもない嘘つきだ、と舞夏は少しだけ鏡の中に映る笑みの形を変える。けれど彼女は決してそれを恥じることはしない。たとえ自分が嘘つきだとしても、大切な家族がそれを望むのなら構わないのだ。

分かっている、はずなのに。

ちらり、と舞夏は床に置きっぱなしになった救急セットを見る。どうしてもあれだけは持っていかずにはいられないのだ。無駄だと知っていても。

(…ダメだ、余計なこと考えちゃ)

首を振り、スカートの裾を握る。

思考を切り替え、備え付けのキッチンを置いてある大鍋の中身を確認する。行くときは大抵、料理が出来ない義兄の為にいつも日保ちのよいものを作って持っていくのだ。
今日持って行こうとしたのはシチュー。彼の好物の1つで、何時間もかけて作ったものだ。普段ハンバーガーなどのジャンクフードが目立つ彼の健康のために、栄養を考えながら、ニンジンやジャガイモ、タマネギが柔らかく甘くなるまで煮込んだ自信作。蓋を開けると、ふんわりとした優しい匂いが広がる。

(うん。上出来上出来ー)

納得の出来に、にんまりと笑みが溢れる。彼が食べたら何て言うだろう。美味しいと言ってくれるだろうか。その姿を想像して、笑みを深くする。どうせ彼は、何を作っても美味しいと言ってくれるのだろうけど。

明日になったら、これを持って義兄のところに行こう。それで彼に抱きついて、来ちゃったと笑ってみせるのだ。消毒液の匂いには、気がつかないフリをして。

舞夏はカチューシャをしっかりとつけ直すと、両頬をパチンと叩く。自分がいるべきポジションを再確認し、顔を上げる。

(…大丈夫。兄貴がそれを望むなら、私は)




騙し愛




(どんな嘘つきにだって、なってみせる)







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