スパイファミリー | ナノ


▽ 理屈に落とされる踵



その日の夜はまともに眠ることができなかった。
彼女の部屋の前から自分の部屋に戻るまでも結構な時間がかかった。しばらくその状態から動くことができなかった。ヨルから離れて、自分がしてしまったことを思い返して、様々な感情がロイドを襲っていた。
今まで自分の想いを意識がないヨルだったからこそ、ぶつけても大丈夫だって思っていた。

意識がないから、あなたを思い切り抱きしめる事ができていた。
あなたの温もりを、自分の身体に刻み込ませて。
だけど思い知った。ほんの一瞬でもタガが外れるだけで自分自身をコントロールすることができなくなる。
こんなことはスパイである自分にとっては、あってはならないことであって。
任務の時は、もちろんこんなヘマをしたりなんかしない、自分は「黄昏」であるのだから。

本当にヨルと出会ってから、自分の調子がとても狂っている。

こうして、彼女を好きになってしまった。

求めてしまった。

彼女が自分の中に入り込んできてしまって、そんなに嬉しいことを言ってきて、捕まえない方が無理だ。
逃がしたくなかった。一方通行に見ていた彼女への視線が、見つめ返されたことによって、目が合ってしまった。自分の事を意識してくれてるのも知っていた。そうしたら止める事ができなくなっていた。

『好きです』

と言ってしまった。それに関しては事実なので嘘ではないのだが、あの時も、今も、本当は言うつもりじゃなかった。いつか終わりがくるその時まで、心の中に閉まっておきたかったのに。


鉛のように重い足を動かして、部屋へと辿り着いて、ベッドの中へと沈み込んだ。


「あー・・・」


頭をぐしゃぐしゃにして、ごろんと寝転がって天井を見つめた。目を閉じれば、蕩けた顔で自分を見つめるヨルの顔が浮かんできて、重なった唇も抱きしめた身体も思い出して、自分の中の雄が再び呼び起こされる。
耐えきれなくなり、起き上がって陰茎を擦り始めた。本当はあのまま押し倒して、身体を重ねてしまいたかった。すみずみまで知り尽くして、自分の腕の中で女の顔をしてる彼女をもっとたくさん啼かせて・・・。
「本当は」「したかった」「じゃなかった」浮かんでくるのはこのワードばかりだ。


「ヨルさん・・・っ・・・・」


先程まで覚えているヨルの感触を思い出しながら、少しずつ湿っていた亀頭から白濁の液が零れ落ちた。それを手でどうにか受け止め、とても深い深呼吸をする。こうする事も初めてではない。自分とヨルが週一でワインを呑む様になって、眠っている彼女を抱きしめて、部屋まで送り届けるようになってから。一度覚えた温もりはどうしても消すことができなかった。もうずぶずぶに沼ってしまっているのに「いつか終わりがくる」のワードがちらつくと、踏み止まれ、ブレーキをかけろ、と「黄昏」は訴えている。
もうこれ以上、誰かを失うあの痛みを、味わいたくはないんだって。







「え、一週間ですか?」
「最長で一週間。こちらとしてもオペレーション梟への影響も加味しようと思ったんだが、すまないな、人手不足なんだ」

管理官からの呼び出しがかかり、今度は何の任務かとWISE本部へ足を運ばせたロイドは、久しぶりの長期任務を依頼された。こんなに時間がかかるものならば、余程の重要なものであるのだろう。管理官のいつもすましているようですましていない瞳が、本当に頭を悩ませる。詳しく話を聞けば、どうやらこの場所からではなく少し離れた地域へと移動することになるとも聞き、久しぶりに住み慣れた場所から遠ざかる事になる。

「もちろん奥さんと子供への配慮は怠らないし、何か問題でも起こればすぐに梟を優先させるつもりだ」
「・・・そうですか」
「なんだ貴様、何かあったのか」

さすがは管理官。ロイドの多少の変化なりとも見逃さない。ぎくっと背中を震わせてしまったものの、唇を噛んで、余計な感情を押し殺して、いつもの作り笑顔を見せる。

「別に何もありません、長期の任務なんて久しぶりだなと思っただけです」
「・・・ならば、構わないが」

腕を組んで、少しロイドを怪しげに見つめていた管理官であったが、ロイドが作り笑顔をやめたと同時に、今回の任務の説明を始めた。詳しく話を聞く限りだと、うわまた面倒な事になったもんだなと、頭が痛くなりそうだった。自分一人で何役こなさなければならないのだろうとか、相変わらずの人使いの荒さとか、言いたいことはたくさんあったのだが、「お前にしか頼めない」と言われると、悪い気はしなかった。

「それで、ちょうど3日目辺りに、仮面舞踏会が開かれるらしいんだ。そこにターゲットが来るという情報も掴んだ」
「仮面舞踏会ですか」
「詳しい話はまた前日に行うが、お前にはそれに行ってもらうことになると思うから、そのつもりでいろ」

仮面舞踏会。表では聞こえがいいかもしれないが、その会場内では様々な出来事が起こっている。裏の取引などを行う場所でもあったり、素性が明かされないが故に様々な縛りから解放されて、不謹慎な行為や欲に塗れてしまったりなど、結構なパーティー会場だ。もちろん変装に変装を重ねて行く事になると思うが。

しかし、最長で一週間。一通りの流れを管理官から説明は受けたものの、ヨル、アーニャと一緒に暮らすようになってからこんなに長い期間、傍を離れる事は初めてだった。久しぶりになんの柵もなく、ロイド・フォージャーとしてではなく、黄昏として長く過ごすことになる。WISEの本部を後にして、最初に思ったのはその事だった。2人の笑った顔がロイドの脳裏を過った。しかもヨルとは、あの一件があった後、すぐに距離を開ける事になったのだ。これは自分にとって好都合なのか、そうではないのか。
今だって、瞼を閉じれば、あなたを思い出してしまうのに。





「ってわけですみませんが、一週間ほど家を空ける事になると思います」
「ちちだけずるい!アーニャもいっしょにいく!」
「ダメですよアーニャさん、ロイドさんお仕事なんですから」
「申し訳ありませんが、その間、アーニャの事、よろしくお願いします」
「承りました。お仕事大変だと思いますが、頑張ってくださいね。こちらはお任せください」
「一応フランキーにも事情は説明してあるので、もし何かあれば、あいつに連絡して下さい。番号控えておくので」
「・・・はい」


あんなことがあったから、ヨルの態度がぎこちないかもと少し気に止めていたが、やはり3人でいる時はヨルも普通に応対してくれている。ヨルにとってはいい事なのかもしれないと思った。自分が攻めすぎたから、ちょうどいいタイミングで自分と離れる事ができるから、内心はほっとしているんじゃないかって。最後の「はい」の声のトーンが余計にそれを感じさせて。
(そりゃあ、そうだよな)
そうだ、ちょうどよかったんだ。自分も冷静になれるきっかけを作ってもらえたんだ。ロイド・フォージャーから離れて、黄昏として過ごす時間が多少なりとも増えれば、気持ちに蓋をして、なんなら捨てる事だって。

サクっとハンバーグにフォークを刺して、ロイドの動きがピタリと止まった。



夕食後、トランクの準備だけして、シャワーに入ろうと部屋を出て、浴室へと向かった。ドアノブに手をかけた瞬間に浴室のドアが開かれて、そこからお風呂上がりのヨルが出てきて、ロイドはごくりと唾を呑んだ。
一方のヨルの方もロイドと至近距離で対面した事により、口をぱくぱくさせながら思わずドアを閉めてしまった。オレも遠慮しない、昨日のセリフと出来事を思い出して、またヨルの頬が真っ赤に染まっていく。

(閉められた・・・)

ふう、とロイドは深い溜息をつく。地味にショックを受けてしまってる自分もいた。
しかもお風呂上がりの、とてもいい香りがする、ヨルがドアの向こう側にいる。濡れて綺麗な黒髪、普段は白いのにお風呂で温まって少しだけ赤くなっている肌。無理だ。これはすぐに消すことができない。

「ヨルさん」
「・・・・・・・・・はい」

ドアをノックして、ヨルの返事を待った。とても小さな声が聞こえたが、ドアの向こう側にいるヨルが、今どんな状態でいるのかも手に取るようにわかってしまう。きっと蹲って、顔を真っ赤にして、どうしよう、どうしようって、そう思っているんだ。今すぐドアを開けてこの腕の中に抱きしめてしまいたい。だけど。

「・・・すみません、びっくりさせちゃいましたね」
「い、いえ・・・」
「ボクは一旦部屋に戻るので、気にしないで出てきて下さい」
「・・・え・・・・・・?」
「おやすみなさい」

そのセリフの通りにロイドは浴室から離れて、自分の部屋へと戻っていく。自分と目が合った時のヨルの可愛さといったらなかった。きっと何かされるんだろうって思って身構えてしまったんだろう。だから咄嗟にドアを閉めてしまったんだ。ああ、意識してくれているんだなって、凄くよくわかる。昨日までの勢いのあった自分はどこへ行ってしまったんだろうか。あのままドアを開けなかった自分を褒め称えたい。そう、また、少しずつ理性を保てるように努力していけばいい。そうして少しずつ蓋を閉めれるようにしていけばいい。
あの日の出来事は、自分にとっての最初で最後の夢だったと、そう思えるように。



「それじゃ、行ってきますね。アーニャ。ヨルさんの言う事、ちゃんと聞くんだぞ」
「うい。ちち、しなないでね」
「なんでそうなるんだよ」
「そ、そうですよ、アーニャさん!確かに少し遠い場所に行ってしまいますけど、大丈夫ですよ」

翌日の朝、ロイドを見送るアーニャとヨル。そしてロイドとヨルの心を読み取って、不安を感じていたアーニャは、ロイドの脹脛にぎゅっとしがみついて離れようとしなかった。多少難しい事を2人共考えていたのは知っている、それでもお互いの「離れる事ができてよかったかもしれない」この言葉は、アーニャを不安にさせるには充分すぎて、ロイドを引き止めたくなってしまったのだ。

「やっぱり、淋しいですよね・・・」
「さみしい。ちちもははも、さみしくない?」
「「えっ」」

アーニャの問いかけにロイドとヨルは目を見合わせた。どくんどくん、と鼓動が早くなる心臓。この鼓動はどっちの感情?動揺?安心?それとも?戸惑うヨルを見兼ねて、ロイドはアーニャをひょいっと抱き上げて、背中をポンポンと優しく撫でた。そしてアーニャを真ん中に挟んでヨルをそっと抱き寄せる。

「ひゃ・・・っ・・・!?」
「・・・行ってきます、アーニャ、ヨルさん」

アーニャと同じように優しくヨルの背中を撫でて、身体を離したあと、抱き上げていたアーニャをヨルへと渡した。ヨルは少し俯いた後、少し瞳を潤ませて、笑顔を作って、手を振った。

「・・・行ってらっしゃい、ロイドさん」


ロイドを見送って玄関のドアが閉められると、ヨルはアーニャを少しだけぎゅっと抱きしめて、アーニャの方に顔を埋めた。優しいから、ロイドはいつだって優しいから、自分が困っていても、気にしないようにしてくれる。対応してくれる。昨日のお風呂上がりの時だって、そして今だって。ううん、今までもずっとそうで。恥ずかしくてちゃんとロイドと向き合うことができない自分が、本当に情けない。

「はは・・・?」
「すみません・・・ごめんなさい・・・」
「アーニャがいるから、はは、さみしくない」
「・・・ええ、そうですね」

本当にこの親子は、どうしてこんなにあったかくて、優しいのだろう。





長期任務初日から、とにかく本当に怒涛の日々だった。相変わらずの無茶苦茶なスケジュールに、ミッション内容に、とにかく自分が何人いても足りない。流石に無傷でいるのもしんどくて、身体にいくつかの傷を負ってしまった。傷が重症ではないとはいえ、それだけでも自分にとっては大きな痛手ではあったが。任務中は管理官が手配した質素なホテルへと身を潜めていた。帰ったら誰かがいるわけでもなく、帰りの時間も気にする必要もない。それでもつい癖で「ただいま帰りました」と言ってしまう。部屋の中は真っ暗で、部屋の中はがらんとしていて、静寂の闇の中だ。
(そういえば最近までは、ずっとこんな感じだったな)
部屋の中に入り、電気を点けることもなく、まずはシャワーを浴びに向かった。冷たい水から温かいお湯へと変わり、湯気がほとばしると、ロイドはシャワーの下へと身を潜めた。1日すべての疲れが吹っ飛んで、頭が真っ白になるこの瞬間。本来はいけないことではあるが、張りつめている気を緩んで、心地よい水音を聞きながらしばらくぼーっとする。いつもと違う場所にいるのに、フォージャー家にいるものだと錯覚する。今は黄昏であってロイドではないのに、今現在の自分の大部分はロイド・フォージャーで作られているんだって実感する。
やがて目を開けて、身体を一通り洗い、浴室から出ると真っ暗な部屋が目の前に広がる。そういえば電気を点けてなかったとこの時に気づいた。タオルで頭をごしごしと拭き、ロイドは少しだけカーテンの隙間を開けて、夜景を眺めた。アーニャは問題を起こしたりしていないだろうか。何か問題が起こればフランキーが連絡をしてくるはずなので、ないということは大丈夫ということではあるのだが。

そして、ヨル。

アーニャが余計な事をいうものだから、自分もだが、ヨルも返答に困っていたのもわかった。
言葉にするのが難しいのなら、態度で示した方が早いと思ったから、ちょうどアーニャが間にいればヨルも困らないだろうと思って、彼女をそっと抱き寄せた。数日前に彼女に触れていたから、あの時の感触は忘れるはずもなく残っていた。指に力が籠りそうになった。それはコントロールして抑えたのだが。
身体を離した時に瞳を潤ませていたヨルは、どんな気持ちでいてくれたんだろうか。

流石に何もなく一人きりになると、彼女の事を、考えてしまう。
1週間過ぎる頃には、少しずつヨルの事を考える事も薄れていっているのだろうか。
ヨルも今頃自分がいないことに安堵して、落ち着いて過ごせているのかもしれない。

自分の気持ちにも、波が引いていくのかもしれない。






数日後、この任務に携わる前に管理官から告げられていた仮面舞踏会の詳細を伝えられた。

「は、女ですか?」

今回のターゲットはどうやら女らしいのだ。男性とばっかり思っていたため、これは想定外で、気を抜けた声が出てしまった。

「そうだ。国家統一党の、デズモンドに近しい人間ではないのだが、そいつの娘がターゲットだ。その父親と娘が裏組織と繋がっているらしいんだが、娘に国家統一党の情報を仕込んで、その会場で取引を行うらしい」
「人ごと、ってやつですか」
「まあ娘は間違いなく、身体ごと差し出すって事になるだろうな。情報もおそらく下着など、直接触れられない所に仕込んでいると思われる。お前にはその仕込まれている情報の回収をお願いしたいんだ」
「女を・・・誘い出す必要があると」
「おそらく向こうも、情報を渡すついでに篭絡させる勢いでいるとは思っている」

爆弾の回収よりも、東国の策略を貶めるよりも、かなりのきついものがきたなと思った。しかもよりによって、仮初ではあるが妻子持ちである自分にこのような任務を要求してくるなんてなかなかなものだなと。自分は今までも女性と関係を結ぶことがなかったわけではない。利用するだけ利用して、最後は切り捨てる。聞こえは悪いが女性の認識はそのようなものだった。今回の場合だと、身体の触れ合いももしかしたらしなければならなくなるということも理解した。大方、仕込まれているとすればブラジャーの裏側のパットが入っている部分だろう、そうなると服を脱がせなければならない必要がある。密室へと誘い込まなけらばならない。

(・・・あ・・・・・・・)

いつもならなんとも思わない、女の扱い方を熟知している自分だから頼まれているのも知ってる。
それでも、今の自分では訳が違う。女を抱かなくてはならないかもしれない、その時に真っ先に浮かんだ。

『ロイドさん』

そう、ヨルの顔が。

「招待状の代わりになる仮面と、ターゲットの資料を渡しておくから目を通しておけ。女の扱いはお前の判断に任せるから」

管理官から仮面と資料を手渡されて、ホテルに帰って目を通す。ターゲットの女は遜色ない美人ではあったが、こういう人に限って性格が厄介すぎる場合が多いなとロイドは溜息をついた。資料をベッドの上に投げ捨て、自分の両手を見つめた。オペレーション梟が始まって、この手に触れた女性はただ一人。この手で求めたのはただ一人。唇を重ねたのもただ一人だ。しかも任務でもなんでもない、自分の意志で。
気持ちに蓋をしようと思って、離れられれば少しは抑えられるかもしれないと思ったのに、これは正直しんどい。好きでもない女と、そうする可能性が高いだなんて。
不思議な事に、そうしなくてはならないと思うほど、ヨルの事が浮かんできて更にロイドを追い詰めた。

「・・・あいつに電話しよう、アーニャの事も気になるし」

気を紛らわせたくて、ロイドは受話器を取って、電話を掛ける。電話をかけているのはフランキーだ。
この任務の事を話すつもりはないのだが、あいつと話していれば気が紛れるとそう思ったから。

『はい、もしもし。フォージャーです』

受話器の向こうから聞こえてくる声に、ロイドは息を呑んだ。
数日前までに毎日聞いていた、優しくて、甘くて、癒される、女性の声。

「っ・・・・・」

ロイドが電話をかけていたのは、フォージャーの家だった。そして電話に出たのはヨル。かける番号をフランキーではなく、自宅の方にかけてしまっていた。やってしまったとそう思い、ロイドは手で口を抑えて言葉を発するのを堪えた。早く受話器を切らなければと左手に言い聞かせているのに動かなくて。こんなに動揺してしまったのはいつぶりだろうか。

『・・・ロイドさん?』

そう聞こえた瞬間、心臓が激しく唸ったのと、目を大きく見開いてしまう。どうして自分だとわかったんだろう。何も喋ったりなんかしていないのに。

「・・・あ、すみません、名乗るのが遅くなって。でもどうして、ボクだってわかったんですか」
『少し声が聞こえたんです、それがロイドさんだったから、そうかなって』
「耳、良すぎますよ」
『あ、え、あ、そうかもしれません、ね』

受話器の向こう側のヨルが、今、あわあわしてるんだろうなっていうのが手に取るようにわかる。
自分だと気づいた事にはとてもびっくりしたけど、気づけば自分の口元が綻んでいて、力が抜けて、その場に座り込んでしまった。もっともっと、声を、聞いていたかった。

「お変わりなく過ごしていますか?」
『はい、最初はアーニャさんも淋しがっていましたけど、学校もありますし、元気に過ごしてますよ』
「・・・ヨルさんも、お変わりないですか?」
『え、あ、私は、その・・・』


きっと自分と離れて、ほっとしているだろうと思っていた。それでも、自分が家を出る前の、彼女の潤んでいた紅い瞳が忘れられない。こんなにも一瞬で、引いていた波が大きな津波となって自分の下へと押し寄せてくる。目の前にいるわけでもないのに、手を伸ばして、顔にそっと触れて。

『・・・しいな、って』
「・・・?」
『その・・・、淋しい、な、って・・・』
「ヨルさん・・・」
『あ、ああああああの、やっぱり、その、当たり前に、一緒に過ごしてきたから、ロイドさんが家にいない夜は、朝は、いつもと違くって、こう、ぽっかり、穴が開いた感じがするんです。それに・・・』

瞼を閉じた目がぴくぴくと痙攣していた。今とてもこれ以上のない言葉を聞いている事を理解している。顔を合わせていないからこそ、こうして気持ちを発する事ができているのかもしれないが、この前のホットミルクを作った夜と同じだ。うっかりかもしれないが、ヨルが気持ちをそのままに伝えてくれている。そうしてそれに心が躍らされてしまう自分。こうなるとまた忘れられなくなるんだ。あなたが自分を好きになってくれたらいいのにっていう、自分の心の奥底に眠っている想いが蓋をし切れなくなる。

「・・・それに?」
『あ、会いたいなぁ、って。声が聞きたいなぁって、思ってしまってて。そうしたら電話がかかってきたんです。だから』
「嬉しかったですか?」
『・・・恥ずかしいので、言わないでください・・・』


目の前でこんなことを言われていたら、自分は間違いなくこの前みたいに、ぎゅっとして離さないんだろう。本当に今すぐ飛んで帰りたい。だけど。

「・・・オレは、嬉しいですよ」
『・・・!』
「嬉しいです」
『・・・はい。』

明日に控えてる任務の事を思うと、それ以外の言葉を言う事ができずにいた。こんなにも嬉しいのに、すぐにでも触りたいのに、展開次第によっては、別の女性と触れ合わなけらばならないのだ。いやそうなる確率がかなり高い。耳はとても幸せでも、声が聞けて嬉しくても、心がぐしゃぐしゃに崩れて痛かった。













prev / next

[ back to top ]


人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -