世界で一番清らかな響き


紡が都会の大学へ旅立ってから、私はこの広い家の中で、一人になってしまった。最初はそれを気にしてか、あかりさんや、隣の家の人が気遣ってくれて、ご飯に誘ってくれたりしていた。今では頻度は減ってしまったけど、声をかけてくれることが嬉しかった。私が遠慮がちになってしまっていたせいでもある。心配かけたくなくて、素直に好意に甘えることができなくて。だから、空虚に満ちる時、どうしても涙が浮かんでは堪えきれずに流れた。

「寝る前に、毎日電話する」

旅立つ前に、紡はちさきにそう告げていた。紡だって忙しいんだから、私の事は心配しなくていいんだよと、ちさきは紡の行為を断ろうとしたが、紡はその返事を告げないまま、この場所を後にして。あれから毎日、多少の時間のズレはあったりしたが、紡からは毎日電話がきた。今日はこんなことがあったや、おじいさんの容体の話や、日常の会話を交わしていた。紡からは学校の日常を聞く事はあまりなく、彼から聞かされる話は、紡が研究している海の話が多かった。
それを聞いては、ちさきの胸はちくりと痛むが、しっかりと話を聞いていた。

「そろそろ切るね。明日も頑張ろ」
「ちさき」
「ん?」
「俺、来週、そっちに帰るから。休みだし」
「本当に?わー♪久しぶりに会えるんだね、楽しみにしてるよ。じゃあ、夕飯は紡の大好物にするね!」
「ああ。じゃあ、おやすみ」
「おやすみなさい、紡」

ガチャっと受話器を置いて、ちさきは畳の上に寝転がった。

『帰るよ』

帰るよ、という言葉がこんなに嬉しい言葉だなんて思わなかった。帰ってきてくれるんだ。それはそうか、ここは彼の家なんだから。それでも、今のちさきにとっては、とても重要な言葉に過ぎない。大切な人達の帰りを、ちさきはこうして、ずっと、ずっと、待っている。











今日は紡の大好物の食材を揃えて、いつもより早く帰路についた。夕方には帰るとは聞いていたが、時間は知らない。多分この時間だろう、というのを想定して、紡の帰りを待とうと思っていた。
家の鍵を開けようと、ちさきは荷物を置いて鍵を探す。その鍵を見つける数秒の間に、勝手に入り口の扉が開いた。驚いたちさきが目を動かすと、そこには紡の姿があったのだ。

「どうした、そんなに驚いた顔して」
「や、だって、もういるなんて思わなかったから」
「そうか。おかえり、ちさき」
「もう、それは私のセリフでしょ、おかえりなさい、紡」

にっこりと笑っていたちさきだったが、その瞳を開けるのが実は精一杯だった。涙腺が弱い。どうしてなの、こうして一人じゃないんだって、わかっただけで、涙が溢れてきてしまうんだろう。ダメだ、堪えなきゃ、我慢しなきゃ、せっかく会えたんだから心配かけないようにしなくては、と。

「それ、今日の夕飯?」
「・・・うん、そうだよ、張り切って作っちゃうんだからね」
「持つよ、重そうだし」
「ありがと」

開いていた扉は閉まり、久しぶりに一人ではなく、二人になった。
ちさきの手料理を食べた紡は、美味しいと一言だけ呟いて、黙々と食べた。会話こそそこまで多いわけではなかったが、ちさきは心がほっこりと温まっていくのを感じていた。
後片付けを二人でして、ちさきは、紡の部屋へ行き、布団の準備をする。それを終え、今度は自分の方をやろうと部屋を出ようとした瞬間に、お風呂上がりの紡が部屋に戻ってきた。

「丁度、敷き終わったところだよ。紡、今日は移動で疲れたでしょう、もう休んだ方が」
「ちさき」

紡はちさきを呼んで、彼女を見つめていた。そんな紡に困惑したちさきは、なんだろうと思いながら、紡の返答を待っていた。

「今日はお前も、ここで寝ないか」
「え・・・えぇっ!!な、何言ってるの紡、そんなことできるわけ」
「家族だろ、俺達」

気が動転していたちさきを止めたのは「家族」という言葉。そうか、家族か、家族なんだ。
紡はきっと私を心配してくれている。あの時から、ずっと、ずっと。何も言わなくても、言葉数が少なくてもわかっている。
家族だからと彼は言ったが、そんな簡単に括れるものではなくなっていた。
ちさきにとって、紡はもう、大切な存在の一人になっているのだ。家族という関係を超えてしまう程の、大切な大切な人。

それに気づくことは、そう時間はかからなかった。

「・・・わかった、いいよ。私もお風呂に入ってくるね」

ちさきは返事を返すと、紡を横切って、襖を閉めた。紡はしばらくそのまま、そこに立っていた。
少し時間が立った後、ほんのりと灯りが照されている紡の部屋に、枕を持ったちさきが気まずそうにやってきた。
紡は布団に横になって本を読んでいて、ちさきがいる事に気づくと、起き上がって布団を捲る。

「ほら」
「い、いいの、かな?」
「駄目ならこんなことしない」
「う、うん」

1つの布団はやっぱり狭くて、体の大きい紡は、はみ出してしまうんじゃないかって心配になった。
その時、ふと、昔の事を思い出した。光やまなか、要と4人でよく一緒に眠っていたことを。あの頃はみんな小さくて、1つの布団に皆が収まってしまうくらいだったのに、と。
私だけがこうして大きくなって、一人で大人になってしまっている。皆を残して、姿を見えなくなってしまう、見つけられなくなってしまう。
それがずっとずっと、苦しくて堪らない。

「ちさき、どうした」
「な、なんでもないの、気にしないで」

ちさきは紡に背を向けて、体を丸くして、眠りにつこうと思っていた。だけど、ちさきの背後から伸びてきた力強い腕が、ちさきを捕らえて、そして包み込まれた。

「つ、紡・・・」
「なんでもないわけないだろ」
「本当に、なんでもないよ、だからこの腕を離して」
「嫌だ」

どうしたの、一体何が起こっているんだろう。ちさきは心臓の鼓動が鳴り止まなくて、どうしようもなくて、硬直したままだった。だって、今までだって、彼とこんなことになるなんてなかったし、なるなんて思ってなんかなかったし。どうすればいいのだろう。

「俺はもう、お前のそういうの、見ないフリするのなんて、無理だ」
「紡・・・」
「だから毎日電話するって言った。ちさきが寂しがっていないか、泣いていないか、心配だったから」

背後から囁かれる紡の言葉を、ちさきは胸の詰まる思いで聞いていた。

「俺はいつも、ちさきの傍にいる。それを忘れないでほしい」
「・・・ありがとう。紡は本当に優しいんだね。本当、優しいよ・・・」


彼がどれだけ優しくしてくれたのか、ちさきには充分すぎるほどに理解していたつもりだった。わかっていたが、その優しさに甘えてしまっていいのか、それだけはずっと考えた。
5年という短くて長い歳月を共にしてきて、紡の存在がまったくなかったといったら、そんなわけがない。大きく、大きく膨れ上がるばかりで、どう対応すればいいのか、自分でもわからずにいて。けれど紡が家からいなくなって、一人になったことで、完全に自覚してしまったのだ。

「紡がこうして心配してくれるのは、家族だから、なの?」
「なんでそんなこと聞くんだ」
「気になるよ、だって、今だって、こんなに温かくて、優しいんだもん」
「俺がそれを言えば、ちさきを困らせることになる」
「え・・・?」

ちさきから手を離し、起き上がった紡がちさきを見つめると、紡はちさきの唇に唇を重ねた。ちさきは目を丸くして、唇を離された後も、ずっとそうしていて。

「ほら、困っただろう」

そう呟いた後、また紡はちさきの唇を塞いだ。紡の体の重みがちさきの柔らかな体を潰していく。
何度か触れあっていた唇の深さが増し、紡の舌がちさきの咥内に侵入してくる。その深さに、ちさきは息をすることができずに、紡のパジャマにぎゅっと力を込めて握り締めた。それに気づいた紡が、少し力を緩める。それから長い時間、紡とちさきはキスをしていた。

「平手打ちを覚悟していたんだけど」

長いキスを終えた彼が最初に呟いたのは、その言葉だった。

「・・・嫌だったら、とっくにそうしてる・・っていうか、そもそも一緒に眠ったりなんかしないもん」

ちさきは両手で両頬を抑え、恥ずかしそうにしている。紡にとっては、どうやら想定外の出来事だったらしく、ちさきを見つめてはまた、顔を隠す彼女の手を振りほどき、そしてがっちりと掴んだ。

「ちさき、こっち向いて」

そう呟いた紡に、ちさきはゆっくりと顔を動かして紡と向かい合う。
そんな紡の表情は、とてもとても優しいものだった。いつも私の事を、こう見ていてくれていたのだろうか。どうして気づかなかったのだろうかと、またちさきの涙腺が緩くなっていく。

「何で泣きそうになってるんだ」
「さ、最近、涙腺が弱くて仕方ないんだもん」
「最近じゃないだろ」
「・・・・・・っ」


そうしてまた、紡の体が、ちさきに覆い被さった。ちさきの腕が紡の背中に回されて、ぎゅっと抱きついていて。
広い家の中の小さな部屋で、二人は同じ夜を過ごす。好きだとも何も告げられたりはしていない。最後にまだ踏み込めない領域が、そこにはまだ、存在しているからだ。




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