アサクリエツィオ話。
BHネタバレありです。空気がやけに冷たく感じた。生まれてこの方ずっとフィレンツェで暮らしてきたが、この街の空気はこんなにも冷たかっただろうか。こんなにも自分に対しよそよそしかっただろうか。ほんの数日前までの穏やかな生活を、もう上手く思い出すことができないでいる。酷く遠い世界になってしまった。
長い間打ち捨てられていたであろう体は、冷たい。そして重い。ぐったりと力の抜けた体は、見知ったそれとは余りにも違いすぎた。嫌でも実感が押し寄せてきて、しかし、それでも涙は流れない。不思議と涙が流れないのだ。心はただただ虚ろに、喪失を思う。
もう決して戻らない。父と2人の兄弟は、死んだ。
ぎい、ぎい、と軋む音が宵闇に響く。オールを漕ぐ手が重い。
ぐるぐると頭の中を巡るのは後悔と、暗い感情。
自分も殺されるところだった。けれど生き残ってしまった。必死にもがいて、けれど助けることも出来ず。自分だけ。居場所も無く。無力だった。
いっそのこと死んでしまったら、その方が楽なのではと、思わなかったと言えば嘘になる。けれど残った母と妹の存在がそうはさせてくれなかった。
生きなければならない、例えどれほどつらくとも。残された家族を守らなければ。もう自分しかいないのだから。
足下の父と兄弟に目を向けて、それから振り向いて遠ざかる街を見た。再び訪れることは出来るだろう、けれど本当の意味で帰ることはもう出来ない。これは永遠の別れ。穏やかに、平和で、幸せだった日々との、永遠の別離。
「…さようなら」
何に向けて言ったのか、亡き家族にか、愛した街並みか、それはエツィオ自身にも分からなかったけれど。
ぽろり、一粒だけ、初めて涙が流れた。
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