マイスタージンガー1


ジャーン、ジャージャッジャー……

真鍮のドアノブに手をかけ、今まさにドアを開けるという時に、派手で賑やかなクラシック音楽がドアの向こうから聞こえてきた。
ハインリヒは瞬時に曲名を理解し、ノブを握ったまま一時手を止めた。
明瞭で力強いリズムを刻む曲が、ドアの向こうで鳴り響いている。

ドアを開けると、鼓膜を強く震わす大音量が部屋から流れ出してきた。余りの音の大きさに、ハインリヒは眉根を寄せる。

子供の一人部屋としては有り余る広さに、敷き詰められた暖色系の細かい模様の絨毯、艶のある重厚な色合いの猫足の家具など、クラシックなスタイルで統一された室内は、一世紀前の貴族を想わせる。しかし一見欧州の格式あるホテルのような彼女の部屋は、デスクの上だけは違っていた。

その例外は、ドアから向かって左の位置にあり音源もそちら側にあるようだった。
特大のスピーカーが両脇に立つデスクの上に、大型のディスプレイが3つ繋がれた、なにやら無骨な大きさを誇るタワー型のデスクトップパソコン、それに付属するキーボードとマウス。アンティークな部屋に似合わぬ、煩雑に配線が伸びる機器が集約されたデスクの前に、その部屋の主はいた。

大音量にも関わらず、彼女はハインリヒの入室に気づいたようで、唯一現代的な無機質さ見せるをデスクの前で、座っていた回転椅子ごとくるりと回ってこちらを向いた。いや、ドアを開ける直前に音楽が鳴り始めたことを考えれば、彼女はハインリヒが入室するタイミングを事前にわかっていたようだった。

『こんにちは、ハインリヒ先生!』

彼女が膝の上に抱えていた薄型ノートパソコンのキーボードを、彼女の手が異常な速さでタイプする。しかしそれによって発せられた"彼女の声"は、部屋を満たすクラシックにかき消されてかろうじて聞こえる程度だ。いつもの習慣で、なんとなく言葉の内容はわかったものの『音量を下げろ』という意志を伝えるために、ハインリヒは聞こえなかったふりをして耳の後ろに手を当てた。
その様子を見たシュウが、デスクの上のマウスに手を置き何やら操作をすると、けたたましく鳴り響いていた前奏曲は、ささやかな会話のBGMとしてふさわしい音量になった。

ハインリヒが勤めていた運送会社が、景気のあおりで倒産してから三か月。
ハインリヒは次の就職先として、知り合いの"つて"で、一人の生徒専属の家庭教師をするようになっていた。最初にこの家に訪れたときは、住宅の豪華さから堅苦しい家柄なのではないかと想像して家庭教師の依頼も断ろうかと思っていたが、意外にも親は結構な放任主義で、子の方も自由奔放、ハインリヒを家庭教師として迎え入れることも、ほぼ彼女の一意で強引に決まってしまったようなものだった。
しかし、それ以外の事が原因で、後にハインリヒは悩むこととなる。

「ワーグナーか?」

ドアからデスクまで、猫背な姿勢で歩きながらハインリヒが訊く。
間髪入れずに、シュウが膝の上のキーボードに左手を走らせると

『うん、先生は音楽についても物知りだ。流石ドイツ人!』

という少女の声が、ノートパソコンから発せられる。
感心していることをこれ見よがしに表現しようと頷くシュウのしぐさは、、下手な芝居のように大げさだ。

「ドイツ人がみんなクラシックに詳しいと思ってるなら、それは偏見だぞ」
『じゃあ先生はクラシックに詳しいドイツ人なわけだ』
「ちょっとかじってたことがあるから、多少はな」
『へぇ』

先ほどの演技掛かった態度とは打って変わって、シュウは目を見開いて素直な反応を見せた。彼女の口も、僅かに開きすぼめられていて、形こそ自然に話している風だが、声が出ているのはやはり膝上のノートパソコンである。

この子の家庭教師をはじめて最初の一ヶ月、ハインリヒはこの声に悩まされていた。
彼ははじめて彼女に会った時、機械を通して人間のように話す彼女に、忌避感情を抱いていたのだ。

彼女が機械から発する声は、本物の人間が話すように流暢で、なんの違和感も感じられない。けれど、どんなに人に似ていても、それは人の声ではない。
最初は、この声と会話していると、ハインリヒは自分の根底にかかわることを常に突きつけられている気がしてたまらなかった。しかし、それを理由に依頼を断るということもできなかった。断れば、決定的な何かを自分から切り離してしまう気がしたのである。
そうして何とか一か月間、ほぼ毎日彼女の家庭教師を続けるうちに、だんだんとその悩みも気にならなくなってきた。それでも彼の心の隅には、この声への忌避感が巣食っていたが、二ヶ月目には、その感覚を自分自身も知らないふりをすることに彼は馴れてきていた。

機器類の乗ったデスクにたどり着いたハインリヒは、あらかじめ用意されていた彼用の椅子に座る。両脇に置かれた良質なスピーカーからは、聞く者を陶酔させてしまうような、高揚感を煽るような曲調のクラシック音楽が聴こえる。


『この曲に、なにか思い入れが?』

カシャカシャと素早いタイプ音が響き、思わず聞き入るハインリヒに向けて、シュウがそんな質問をしてきた。
ハインリヒは奇妙な質問だと思った。この問いかけは曲を流した側が受けるものであり、聞かされている側にする質問としては異質である。
彼がシュウの方を向くと、彼女は膝の上のノートパソコンを机に置き、頬杖をついて「まるで悪気はない」とでも言いたげな惚けた顔をしていた。もちろんハインリヒはそんなものは演技であると知っていて、隠された彼女の、強すぎて彼にとっては悪意に近い好奇心を感じ取っていた。

「お前さん、わかっててやってるだろ」

真剣みを帯びた低い声でハインリヒが言っても、シュウはひるむことなく口の端を上げて笑い、白々しい態度で首をかしげてみせた。傍らにまたキーボードの上に置いた左手を動かす。

『なにを?』

その様子に、ハインリヒは思わず苦笑する。大したものだ、という感想すら抱く。
大人顔負けの技術を駆使し、年齢に不釣り合いな表情で笑う。そのくせ無遠慮な程強い好奇心で行動する辺りは丸っきり子供のやり方である。
室内に流れるクラシックがひときわ大きく盛り上がり、全階調的な音楽が二人の間の一時的な静寂の裏に響く。


"ニュルンベルクのマイスタージンガー 第一幕への前奏曲"


「お前さんの後学のために言っておくが、『マイスタージンガー』をさも意味ありげに音楽好きのドイツ人の前で流すだなんてことはやらないほうがいいぜ。相手によっては面倒ごとに巻き込まれる。理由は分かってるんだろ」
『前奏曲でもだめ?』
「そもそも"この手"のことに敏感な奴には、前奏曲だろうがなんだろうが関係ないさ」
『先生はどうなの?』

「俺は『ナチ御用達』だったからという理由で音楽を判断したりしない。そもそも『ワーグナーといえばナチ』だなんて短絡的な発想が、俺は気に入らない。第一、ナチスが彼の作曲を利用し始めたのは彼の死後だ。だからそれは彼の作曲に対する評価とは関係ないってのが俺の考えだ。確かに当時の有声映画をみればよくかかっているが……それは俺が生まれる前の話だしな。連想はしても、思い入れなんて俺にはない」

『……ふぅん』
身を起こして回転椅子の背に体を預けたシュウは、ハインリヒの返答を聞いて神妙そうに考えるようなそぶりを見せた後、妙に納得したというか、確信を持ったような表情をしてこうタイプした。

『先生は音楽が好きなんだね。それに冷静で、他人や風潮に流されたりしない人なんだ』

少しうれしそうに一人満足している様子だ。シュウは、ハインリヒの隠れた一面や、過去のことが分かるたび決まってにこんな反応をする。そんな彼女を前に、ハインリヒはため息をついた。

そんなことを知りたいがために、こんな悪質ともいえるカマ掛けを一回りは年上の相手に仕掛けてきたのか。
まあ、この家に来てからというもの、彼女の言動に驚かされることは多々あった。いまさら驚くことでもない。

相変わらずの少女は、ハインリヒの様子から彼の心情を悟ったのか、肩を震わせていたづらっぽい表情で笑う。声は出ないが、そのしぐさだけで短い笑い声が聴こえてきそうだった。

ハインリヒは、彼女の機械の声で話すという奇異さよりも、この何をも恐れぬ大胆不敵さこそシュウの最大の特徴だな、と半ば感服したような気持ちでいた。

「さ、くだらんやり取りはこれで終わりだ。勉強始めるぞ」
『はーい』




←戻る

夢置き場へ

人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -