地平線から日が顔を出す、ほんの少し前。街の緊張を知ってか知らずか、仄暗い病院の廊下は、静寂で満ちていた。 息を殺して、冷ややかなリノリウムの床を踏む。殺風景な院内で、非常灯の緑だけがぼうっと浮かび上がっていた。 一歩前に進む度、胸の傷が引き攣れるように痛む。だが、ここで止まっている訳にはいかない。オジキに拾われ、珠を拾ったこのかぶき町のために、戦わなければ。 付きっきりで看病してくれていた珠が、ぱたりと眠りに落ちてくれて幸いだった。今回ばかりは、彼女を連れて行きたくはない。 これまで、珠とはいくつもの抗争を切り抜けてきた。彼女の力は信じている。安心して背中も任せることができる。けれども、この戦いは危険すぎる。 かぶき町四大勢力の乱戦、周りは敵だらけ。オジキの首が、最後まで繋がっている保障はない。手負いの自分も、どこまで持つか分からない。せめて珠には無事でいてもらわねば、溝鼠組は瓦解してしまう。 ーーいや、正直に言えば怖いのだ。組よりも、珠を失うことが。ただの師弟でも、家族でも、恋人でもない。それなのにいつの間にか、そのどれよりも掛け替えのない存在になっていた珠を。 自分は、つくづく臆病で情けない男なのだ。それでも、その臆病さ故に珠を護れるのならば、構わない。 緊張と痛みとで額に滲む汗を拭ったとき、耳馴れた澄んだ音が、小さく聞こえた。 「っ……」 息を呑み、ゆっくりと振り返る。昇り始めた日が窓から射し込み、その左の半身を眩しいほどに照らしていた。 「珠……」 「アニキ、忘れ物だよ」 平坦な声だった。やや俯いた顔からは、うまく表情が読み取れない。置いて行かれた事に怒っているのか、悲しんでいるのか。 「大事な右腕、置いてくの?私も一緒に行く」 「…あかん」 「ばか。…アニキの考えてる事くらい、分かるよ」 言いながら、すたすたと自分の右隣に落ち着く珠。見下ろす彼女の顔からは、やはり表情が読めない。長い睫毛が、朝日を受けて煌めき揺れている。 「でも、私だけ生き残ったって意味ない。私は、生きるのも死ぬのも、アニキと一緒じゃなきゃ嫌。そのために、強くなったんだよ」 漸く顔を上げた珠。目と目がぴたりと合う。言葉を発するのも忘れて、その顔を見詰める。 輪郭からは、出会った頃のような丸みは消えている。真っ直ぐに前を見据える目には、淀みも翳りもない。 少女と呼ぶには相応しくない、美しい女がそこに居た。 「…わしは、こない綺麗な右腕、持っとったんやな」 目映く光る頬に、そっと手を這わせる。珠。美しく尊い、宝物。 「アニキに救ってもらった恩、ちゃんと返させて。借りたもんは三借りたら七返す、でしょ?」 「七じゃ足らんわボケ、七十返しィ。…ほな、いくで」 愛すべきこの街で、これからも彼女と共に生きるために。鈴の音を引き連れて、朝焼けに飛び込む。 2016.07.07 |